楽山舎通信

わたじん8の日記です

ドレスデン国立歌劇場室内管弦楽団with森麻季

ドレスデン国立歌劇場室内管弦楽団with森麻季

令和元年(2019)12月1日(日)晴れ
ふくしん夢の音楽堂大ホール14:00開演

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すばらしいコンサートでした。
大編成のオーケストラとはまた違う魅力があるのが、室内管弦楽の編成。福島の音楽堂規模には、最適な音量だったと思うのは、私だけでしょうか。

それにしても、振り返るとJAZZ系以外のコンサートというのは、何年ぶりなのか。というよりも、国際レベルの管弦楽団バロック音楽系編成を聞きに行ったのは、57歳にして、これが初ということになりますか。

「音」を鑑賞するというヒトの行為に於いては、音楽ホールが作り出す「音」の良し悪しとともに重要なのは、その「音」が、一度アンプを通してスピーカーから流れるのか、楽器や声帯そのものの振動が伝わってくるのかというのは、実に「雲泥の差」と表現しても、さほど間違いではないでしょう。

さまざまな演奏者が発する音を、一度電子に置き換えて、そこからそれぞれのバランスが最適化するように調整してできた音響と、楽器の生音を、その場で音量や響きを調整しながら、振動として聴衆の耳に伝えるというのは、やはりこれは、レベルの違う音楽なんだなと、この日最初のパッヘルベルのカノンを聞きながら思いました。

もちろん、それはクラシック音楽が最高で、それ以外は劣るという話ではなくて、あくまでも、増幅器を使うのか使わないのかが、人間の耳と脳に与える刺激が、別物であろうと、そういうことです。
JAZZでもポップスでも、アンプラグドで生音コンサートもあるし、実際、ピアノ主体のJAZZコンサートは、スピーカー通しませんし。

ここから、揺るぎない結論を導き出すのであれば、音楽的聴覚を育てるのであれば、良質な生音のコンサートに、足繁く通うのがベストであろうと、そういうことです。
そういう意味で、音楽的な教育を早い時期からすすめるのであれば、音響の良いホールと催しの多い東京エリアというのは、やはり地方とは全く別の環境であると、そう言い切ることができます。

まあでも、「音」そもものを、成長の中でどのような感受性で捉えていくのかと考えると、普段の音環境は、自然の音が感じられる場所の方が、間違いなくよいのでしょう。で、そういう場所が、大都会である東京近郊にないかというと、そうでもなく、むしろ田舎のロードサイドの居住環境よりも音環境の良い居住環境はたくさんあるわけで、クルマの音がうるさい田舎のロードサイドに住んでいる自分とすると、音響の良いホールに気兼ねなく通える居住環境は良いなというのが、正直な感想。

開場直後に中に入ると、ステージの上には思っていたよりも多めの譜面台と、思っていたより少なめの椅子。
そして、予想外のチェンバロが真ん中にセットしてある。調律師が調律中。その音は、かすかにしか聞こえてこない。

チェンバロの生音を聴くのは、記憶が確かならばこれが初めてだろう。
実際、演奏の中で、どれがチェンバロの音なのかを、確かにたどることは難しい程の音量でしかなかった。チェンバロ単独で演奏したとして、ホールいっぱいに響く音量になるのだろうかと、ふと疑問を感じた。

あとは、ファゴットが特徴的で、演奏者もキャラクターの濃い方だった。ヴィヴァルディのファゴット協奏曲で演奏する様子は、クラシックの演奏家というよりも、JAZZのサックスプレイヤーでもおかしくないくらいに、熱い演奏だった。

緩急の付け方、フォルテシモからピアニシモまでの、連続的な音の強弱のバランス。これらは、自分がこれまで耳にしていたコンサートのレベルとは、全く違う音色であると、実感した。もちろん、楽器自体の価値、というか価格も、全く別物なのだろうけど。その違いを実感できただけでも、これは秀逸なコンサートだった。

そして、なんと言っても圧巻だったのは、森麻季さんのソプラノ独唱。
音楽堂という空間の中で、自分の声をどのくらいの声量、響きで扱えば最も心地よいかを、まさに計算し尽くしたような、素晴らしい響きだった。ほんとにマイク通してないんだろうかと、そう思ってしまうほどに。

バッハを2曲、マスカーニのアベマリア、ヘンデルの歌劇「リナルド」より、最後はモーツァルトk.165、アンコールが3曲。器楽曲が4曲あって、プログラムでは全9曲だったので、全部で12曲か。約2時間。これで4500円。でも、空席2割弱といったところだろうか。満席にならないんだ。

2020年は、JAZZ系ライブから、微妙にクラシックコンサートの鑑賞が増えていく予感。