楽山舎通信

わたじん8の日記です

「声」

JAZZ STRUTTIN'

ジャズ ストラッティン

Date FMの看板番組とさえ言われるこの番組。ネットラジオのこの時代に、唯一聞き続けている、お隣宮城県FM放送番組である。

番組の構成、音楽を流すことを大切にする(DJとしては当たり前のことだが)抑えの効いたMC。短い言葉に、きちんと大事な内容だけを含める。本当に、余計なことは一切喋らない。1時間というプログラムに許された時間を、CMMC含めて、これほどまでに完璧に制作しているFMのジャズプログラムは、日本中探しても、この番組がナンバーワンだろう。

繰り返すが、ナンバーワンだ。

その昔、私が高校生だったころ、FMといえば、福島ではNHKFMオンリーだったが、実は、77.1FM仙台が辛うじて聞けていた。

当時使っていたラジオカセットのラジオでは無理だったが、当時流行っていた大型のステレオコンポのチューナーは、アンテナ線の貼り方を工夫すると、FM仙台の電波をそこそこクリアーな状態で拾っていた。そこで聞いた「オフコース」(仙台発)に引き込まれ、自分の音楽の趣味が荒井由実オフコースという時代が長く続いた。

その頃は、さすがに板橋恵子さんはDJとして登場していなかったと思うが、生活拠点を会津から二本松に移した頃、J-WAVEを聞くことができなくなって、再びFM仙台の電波を拾う生活に戻り、そこで聞いていたのが、板橋さんの番組だった。

この声、テンポ、間、話題、全てが私の中では最高のDJであった。

今の声も、おそらくその頃とあまり変わらないと思うが、局アナとしてのアナウンサーが、ジャズ番組のDJとして、ここまで洗練された知識と選曲ができる人は、日本中探しても、それほど多くはないのではないだろうか。

ノンDJのジャズ系ノンストップ番組だと、京都の放送局が作っている番組の選曲も、BGMとして使うには良いが、やはり、それなりのテーマで構成される番組は、音楽の知識が増えていくので、「聞き逃がせない」のである。

同じ土曜日の夜、NHKFMで放送される老舗ジャズ番組、ジャズトゥナイトも聴き逃がせない番組で、今年から再放送が始まって聞き逃しがなくなったが、大友さんの控えめなMCは、それはそれで味だし、知識量がものすごいので、ジャズの勉強にはなるのだけど、あのDJ板橋恵子さんだったらなあ、と思うわけである。

音楽と音楽の間に差し込まれる「声」というものは、場合によっては音楽の作り上げる雰囲気をぶち壊してしまうこともあるわけで、夜のジャズ番組には、それにふさわしい声というものがあり、私の中では板橋恵子さんの声を上回るものはないと思うわけである。

男性であれば、3月まで放送されていたNHKFMのジャズ老舗プログラム、「セッション2021」の進行を務めていた濱中博久さんかなと思う。

新型コロナによる音楽活動の制限の中で、「セッション」は終わってしまったが、20224月からの復帰を待望している。

DJが放つ「声」というものは、もはやひとつの音楽と同じなのである。

思い出ビデオ

告別式や通夜などの葬儀が始まる直前に、葬儀の会場で、故人の写真などを編集してスライドショーにしたものを流すことがある。

葬儀の開始前に、3分から5分くらいのスライドショーがあるかないかでは、故人の印象に大きな差が出る。特に、お会いしたことのない方の場合は、その短いスライドで「こんなお母さんだったんだ」と、初めて知ることもあり、それが故人に対する唯一無二の思い出となる。

私の母親の場合は、7月末から、もう残りの生命が長くはないことがわかっていたので、早めに写真の整理をしていた。

スライドショーは、葬儀屋さんに写真のデータを渡すと、それなりに編集したものを作ってもらえるが(有料)、パソコン使ってスライドショーからビデオが作れるならば、自分たちで編集して音楽をつけたものを作ったほうが良い。

ただ、死去からお通夜までの時間が限定的で、その中で、ほとんどはプリントされた写真をパソコンに取り込んで編集し、BGM付けてスライドショーにするというのは、普段から慣れていないと、なかなかにめんどくさい。

2016年に父親が死んだ時には、会場いっぱいの会葬者で、誰が見ても大丈夫なものという条件があったが、今年の場合は、新型コロナの影響で、会葬者は近親者のみなので、条件はかなり違った。このBGMに、著作権のある音楽をつけるのは、法的にはどうなのか知らないが、妹が選んできたBGMは、「エール」だった。NHK朝ドラの主題歌である。

お葬式で、「エール」のような音楽を流すのは、たぶんけっこう異色だ。ただ、「いかにも」な感じで、悲壮感を演出したり、わざわざ悲しみの音楽にしたりして沈み込んでいくのは、なんだか違う気がしていたので、エールのような元気の良い音楽がスライドショーのBGMでも、違和感はまったくなかった。

ほとんど近親者のみしか見ていないスライドショーだからこそ、「普通」とはかけ離れた音楽が流せたが、これが一般会葬者の多い普通の葬儀だったら、「非常識」という誹りも少なくなかったかもしれない。

死の瞬間までを、共に乗り越えてきた家族にしかわからない微妙なニュアンスというものがあり、ぶっちゃけた話、葬式だから「泣きゃあ良い」ってわけでもない。個人的には、まったくもって「泣く」モードに入らなかった。

みぞおち辺りが締め付けられて、不意に涙が出てくるのは、もうちょっと違うシーンなのである。そしてそれは、本人にしかわからないことばかり。些細な思い出の中に、生きていたことの証しを見つけると、昔は気づかなかったやさしさを感じたりして、あるいは、息子としてそれに反発する自分を思い出したりして、泣けてくるのである。

 

母の最後の誕生日

8月1日、日曜日は、母の85歳の誕生日だった。

7月24日に、救急搬送で医大病院に入院し、歩けない身体になってしまった母は、なんとか一命をとりとめた反面、残された時間が、ごく短いものであることを、たぶん母自身も、私たちも理解した。

医大で、HCUから病棟10階の個室に移った母は、iPhoneのLINEを使って、状況を伝えてきたが、医大病院の看護体制が手厚く、メンタル的には落ち込んでいるようには見えなかった。

しかし、肺の状況が改善すれば(酸素飽和度の改善)、ガンに関しては治療できない末期状況だったので、地元である二本松の病院への転院を勧められた。これが7月30日のことだったが、私は、母の誕生日会、しかも最後の誕生日を自宅で祝ってあげたいと思い、兄弟で相談して準備をすすめた。

誕生会の会場は、リビングではなく、母の「城」といえる、美容院のお店の中しかないと決め、そのために物理的な改造を含めた準備を進めた。孫のバイオリンとチェロの演奏会を企画し、その音の響きを最善のものにするために、店内を、建築当初の高い吹き抜けに戻した。建築から4年後に、冷暖房効率を優先するために、吹き抜けに中二階を作っていたのを撤去した。

8月1日は、暑い日だった。酸素ボンベをつけたままの母を、病院から車イスで連れてきて、お店に入った瞬間の母の喜びようを、忘れることはできない。

母は、自分の葬式で、「孫のチェロとバイオリンを演奏してほしい」と言っていたが、死んでからでは意味がないので、最後の誕生日にそれを実現させた。

近親者20名ほどを集めて、わずかな時間の演奏を楽しんだ。

入院してから会えなかった近親者にとっては、母の衰えた姿を見るのはつらいことになったが、会話は普通にできるので、それぞれと久しぶりの会話をする機会となった。そして、それは場合によっては最後の会話となり、生前のお別れ会的なものにもなった。

もう、あとひと月も生きられないとわかった状況で、生前のお別れ会ができる環境というのも、このコロナ禍の時代にあっては限定的なものになってしまうが、それでも、これが実現できたかできなかったかでは、いきなり末期ガンを宣告された母の人生の輝きに雲泥の差がつく。

「終わりよければ全て良し」「有終の美」という言葉の意味を、これほど感じた日もなかった。

母の人生のピークは、私たち3人の子育てと、3人ほどの店員がいて狭い店(面積的には狭くはない)の中で忙しく働いていた昭和40年代から50年代だったと思われるが、そんな人生のラストに、サプライズで最高の喜びを味わえる時間があることの価値は大きい。

しかも、その場所は、6月の半ばまでは、母が「趣味」だったという美容師の仕事をしていた店の中である。

病院に出していた外出予定時間まではまだ間があったが、酸素ボンベの残量が切れてきて、慌てて病院に戻ることになった。

この時の病室は4人部屋で、母以外の3人は、胃ろうで意識もはっきりしていない人ばかりだったらしく、その話を聞いて、速攻で個室に移してもらった。病院側から、最初にその状況の説明が欲しかった。「死ぬ」のを待っている時間を過ごすのではなく、意識もしっかりしていて、一日一日をそれなりに懸命に生きているわけで、メンタル的にも、多少高額でも最初から個室にこだわるところだった。4人部屋から個室に移ったことで、母から来るLINEの量が増え、明るくなった。

安積女子高等学校出身の母は、たぶん、若い頃から音楽が好きだった。私が子供の頃から、台所に立って調理や片付けものをしている時の母は、ビブラート利かした鼻歌を歌っていたのが印象的だった。

母が自分で戒名を考えた時にも、「音楽」という文字を最後に入れてきたが、最終的に授けられた戒名は、「音浄院・・・」と、音が最初に来るものとなった。

今頃あの世で、母は、ビブラート利かした鼻歌でも歌っているのだろうか。