楽山舎通信

わたじん8の日記です

2022年3月11日 11年目の3.11 雑感

11年目の3.11。

来週からの現場が南相馬ということになり、現場の下見と通い道の確認のために南相馬にでかけた。

2011年、震災と原発事故の年には、南相馬の鹿島に仮設住宅の建設に通っていて、阿武隈山地の飯館を超えて南相馬に通うのは、それ以来、11年ぶりとなる。その間に、個人的に飯館超えはしていたので、あのあたりの風景を見るのが11年ぶりというわけではないが、八木沢トンネルが開通してからは初めてになるので、少なくとも4年は見ていない風景だったということか。

川俣から、阿武隈高地の飯館を超える県道12号は、私にとって思い入れの深い道路でもある。

私は、中学2年の1月に、自転車で二本松の自宅から鹿島まで県道12号を走り、雪道と凍結路で何度も転んでボロボロになりながら、必死の思いで帰ってきた道である。地形的なことで言えば、その頃の思い出の中にある風景と大きく変わりはないが、除染は済んでいるとは言え、どうにも生活の気配が薄く、きれいなのに、なんともいえない廃墟感が漂う。

復興は進んでいて、きれいな道の駅なんかも整備されていて、それなりに新しいインフラはあるのだが、「のどかな阿武隈高地」という、震災前のイメージは、たぶん私の中では死ぬまで戻ってこないと思う。薪炭林としての里山林は、長い年月の人との関わりによって育ってきた風景であり、人との関わりを失った里山は、やはり、何かが違う。

放射線量が高いとか低いとか、そういうことではなくて、その場から避難していた、その場の生活が一旦途絶えた歴史というものは、風景の中、風土の中に、ある種の「気配」を生み出し、その印象を払拭することは難しい。

田畑や里山の森林といったものは、人間との共生によってコツコツと作り続けられた環境であり、放置されて荒れた環境や、除染によって大規模に改変されてしまった環境というのは、やはりそれ以前の「共生」の環境とは別物であると言っても、大げさではない。

そんな阿武隈高地の開けた山並みを通り抜け、新しいトンネルで八木沢峠の下をくぐり、「浜」に降りていく。震災前は、自転車で走り抜けることも少なくなかったが、浜に降りていくと、一気に空気が変わっていく。冬の終わりから、春本番の景色の中に降りていくぐらいの差がある。

阿武隈の山の景色に比べると、南相馬、原町の風景は、やはりどことなく活気があり、3月11日ということもあり、ソワソワと人が動いているように見えた。実際、平日なのに、海の見える浜辺に人が集まっていき、なんということもなく海を見ながら過ごし、やがてサイレンの響く時間を待つ。

私は、そのサイレンが鳴るのを待つことなく、南相馬をあとにした。

私は被災者でもなく、家族を失ったわけでもなく、住処を失ったわけでもない。しかし、原発から55キロの場所に住む私は、震災後、被災した人たちと少なからず交流を持ってきたし、少しはその悲しみがわかるつもりではいた。

11年目の3.11。

パンデミック2年目の世界で、北京オリンピックの閉幕を待つかのように、ロシアがウクライナに侵攻し、戦争をはじめた。

自然災害ではなく、プーチンによる国家的な暴力によって、人の住処をめちゃくちゃにし、人を追い出し殺し続けている。

自然災害は、気候変動が加速するこれからの時代では、「経験のない・・」を覚悟する必要もあるかもしれないし、そのための準備も必要かもしれないが、人間の起こす戦争は、ほんとうに狂気以外のなにものでもなく、人を殺して国を奪うことに「正義」はない。

どうか、平和な世界に戻りますように。