楽山舎通信

わたじん8の日記です

ふりかえる時間

気がつけば、8月がすぐそこに来た。

ブログの更新が滞っているが、途中まで書いて放置していたのが2本ある。それは簡単には終わらないので、思いつきでかけることを、7月の印としてひとつ残しておこう。

高校の100周年記念誌に、山岳部OBとして寄稿してほしいという依頼があり、もちろん快く引き受けた。その締切が、7月末だったので、7月の私の頭の中では、その寄稿文のための様々な思い出の掘り起こしが渦巻くことになった。

私は、登山やサイクリングを「自覚的に」始めた頃(15歳前後)から「山日記」を付け出し、とりわけ高校時代は、割と詳細な記録を残している。活動中に記録していくメモも、ある程度は残っている。もちろん、写真は残っているが、活動記録を日記にして残しておくというのは、写真を残すこと以上に大事である。写真は、日記の補完的なものでしかない。これは、ブログにおいても同じことで、写真で全て説明させようというブログなどは、言ってみればただの手抜きにしかみえない。

インスタグラムは、写真や動画にものを言わせるSNSなので、文章が補完的なものになり、文章中心のブログとは性質がことなる。写真撮影してWEBで公開することは、1000字の文章でまとめたものを公開することよりも簡単で、見る方も一瞬の視覚情報で「わかる」ように思うので、圧倒的に増殖していく。

私は「山日記」というタイトルの手帳の中に山行記録を残しておくということを、2000年前後まではやっていた。

私がパソコンを手に入れたのは1996年で、WEB上にホームページを作ったのが1999年。

記録をPCで叩き込むようになり、WEB上に残すようになった頃から、日記を書かなくなったのだ。いや、正確にいえば、WEB上に残しているはずではあるが、パソコンを買い替えているうちに、あるいはホームページを捨てたり、ブログを捨てたりといったタイミングで、記録を消失していた。

結局、ノートに手書きで書いたものが残っているが、デジタル化した初期の時代の情報は、画像を含めてすっぽりと抜けているということに気づいたのである。

30代半ばからあとは、高校や大学時代のような「記録」がなくなってしまった。

今の時代は、登山者用のSNSに残して共有するというのが、主流かもしれない。私もいくつか残してはいるが、全てをそこにアーカイブできるわけでもなく、もはや、近年の情報ほど、「いつ、どこで、何をしていた」がわからないのである。

これは、私としては衝撃的な事実である。

しかも、ノートに手書きで文字を書こうとしても、簡単な漢字でさえも出てこない、そこで思考がとまる。

私は、退化している。のである。

高校大学時代の、あのメモ魔的な自分を、取り戻す。スマホで写真とって、全てを終わらせる、というのを、なんとか卒業しよう。一つ先の時代、デジタル化の先のハイブリッドな時代を先取りしてみたい。(1200字)