楽山舎通信

わたじん8の日記です

真夏のヴィヴァルディ〜 新倉瞳&懸田貴嗣&佐藤芳明 鑑賞

2022年8月24日水曜日。

二本松市コンサートホール(206席)にて、午後6時開演のコンサートに出かけてきた。ミニベロ(自転車)に乗って5分ほどの場所。そんな身近な場所でのバロックコンサート。しかも、一流演奏家の、聞いたことのない特殊な編成で。

「真夏のヴィヴァルディ〜2つのバロック・チェロ&アコーディオンによる」というのが、このコンサートの正式な名称である。コンサートの中身をイメージしてもらうのに、削る言葉がなく、タイトルが長くなったという感じだろうか。

とにかく、ここで目を引くのは、「アコーディオン」である。

バロック時代のヴィヴァルディの演奏に、アコーディオンが入る。少なくとも私は、そういう編成の演奏を聞いたことがなかった。というか、そもそもアコーディオン演奏家は多くはないので、バロック音楽まで守備範囲に持っているという時点で、「それって、あり?」と思ってしまう。通奏低音チェンバロの代わりにアコーディオンで、大丈夫なのか。正直、私のイメージはそこに執着していた。

これで、演奏曲が誰でも知ってるようなポピュラーな曲だったりすれば、楽器と演奏者は一流なのに、田舎の地域性に合わせて曲の難易度を下げてしまう残念な演奏会になってしまうなと思っていたが、プログラムは、ガチでバロックである。とにかく、アコーディオンがどう絡むのか、そこが最大のポイントだった。

私が会場についたのは、開演10分前ぐらいで、チケットのナンバーは148番だった。ホールに入ると、真ん中よりの中列から後列はだいたい埋まっていて、前列の方はがらがら空いている。ので、右側の前に陣取った。席の間隔を開けながらの着席なので、満席にはならないが、7割ぐらいは入っていただろうか。後ろ見なかったのでわからないが。

客席の照明が暗くなり、演奏者の登場。と、拍手のタイミングが遅い。

拍手のタイミングの遅さと短さ。私は、なんか違和感を持ってしまったが、二本松でのコンサートでの「あるある」だな(ちょっと皮肉に聞こえるが)と、思い出した。演奏者の姿がステージに見えても、拍手しない人がけっこう多いし、演奏を終えて袖に戻っていく時も、姿が見えているうちに拍手をやめてしまう人が、かなり多い。着席している位置の問題もあるが、右前の位置に座っている私が拍手をリードしないとダメなのか、と思い、途中から意識的に拍手をリードするように(やめないように)心がけた。

さて、通奏低音としてのアコーディオンの役目に対する私の不安は、一曲目の演奏で払拭された。全く違和感がない。違和感がないどころか、古楽の時代にアコーディオンがあって、街角でバイオリンやチェロとの即興演奏を披露していた、と言っても、それが「あり得る」音色のバランスだった。

私の中では、アコーディオンというかバンドネオンにおける印象は、昨年(2021)が生誕100年で聞く機会の多かったアストル・ピアソラ一色で、タンゴ的な「チャッチャッチャッチャッ」という強烈な印象が拭いきれなかったが、佐藤さんのアコーディオンは、ジャズ的な要素が混じりつつも(MCの中でも説明された)、バロック時代の音楽に妙に馴染んでいた。「鳴っているのかいないのかわからない」弱音を、呼吸として合わせていくのが、聞き所であった。ジャズにおけるウッドベースみたいな感じ。

前列の方で、ステージがよく見えたので、演奏者の表情意外にもいろいろと気になることがあり、書いておく。

まずは、楽譜。懸田さん以外のお二人は、楽譜はタブレットiPad)でフットスイッチ。最近の若い世代の演奏家に急速に広まっているという気がする。バロックにしてもクラシックにしても、電子機器のタブレット見て演奏というのは、もちろんなかったわけだけど、PC、タブレットで楽譜のデジタル管理を始めたら、もう紙の時代には戻れないのかも。引っ越しの多い演奏家ほど、タブレットは神アイテムだ、と思う。

楽章の切れ目で、紙の楽譜をめくる「間」も、それはそれで良い感じなのだけど、3人の演奏者がシンクロしているタイミングをずらさないという意味でも、タブレットにフットスイッチというデジタルな方向性は、演奏者にとって大きな支えになっているのだろうと思われる。しかし、指揮者のいるクラシックオーケストラの演奏で、タブレットの楽譜は「あり」なのだろうか。

2つ目は、エンドピン。

チェロのお二人が、両足でチェロを支えている様子が、ずいぶんと力強いという印象で、よく見たら「エンドピン」(楽器を床から支える金属の棒)がなくて、足だけで挟み込んで支えるチェロで、繊細な表情を作り出している姿に、プロの真髄を見た気がした。というか、私が知らなかっただけで、バロックチェロにはエンドピン付けないのが常識なのだろうか。エンドピンの有無によって、音がどう変化するかは、私にはわからない。

ちなみに、この2台のチェロで、おいくらなのか、とか、余計なことを思ってしまったが、新幹線と在来線乗り継いで、自分で楽器運んで移動するのは、弦楽器だとチェロが限界だろうか。チェンバロは鉄道での持ち運び無理なので、その意味でもアコーディオンという楽器を通奏低音に使うというのは、バロック音楽をより身近で大衆的な音楽にしてくれる楽器だなとは思った。

3つ目は、アコーディオンの佐藤さんが使っていたイスと尻の間に使っていたお椀型のサポート。これも初めてみた。どうも、こういう部分に目が行ってしょうがない。アコーディオンは、立って演奏する楽器のイメージが強く、着座の姿勢による微妙な違いを、この道具でカバーしているか、あるいは腰痛対策か、どういう意味だったのだろう。私の着座位置からは、アコーディオンの右手、鍵盤側の演奏が全く見えず、というか、舞台位置の関係から、鍵盤側が見えた人はごく一部だったかと思うが、私はアコーディオンという楽器の生演奏を見るのが初めてで、たぶん、演奏中の半分以上は、アコーディオンの佐藤さんを見ていた気がする。音の強弱を蛇腹の動きで微妙にコントロールし、音色を自在に変えていく。デジタルの電子楽器にはできない、アナログ鍵盤楽器の繊細さ。私の中でのアコーディオンのイメージが、大きくバージョンアップした。

さて、演奏プログラムは、前半に4曲。後半に5曲で、アンコールが1曲。

3人で演奏するのは、ヴィヴァルディのソナタと協奏曲で、前半後半の最初と最後でそれぞれ2曲づつで4曲あり、その間に、デュエットとソロがある。MCも、わりと長めで、それぞれがお話される機会があり、郡山駅のクワガタの話など、親近性が湧いた。

全10曲の中で、私の印象に強く残ったのは、前半では佐藤芳明さん作曲の「2つの楽器のための2つのカノン「寛容」「琢磨」」。

2曲の対比「緩」と「急」のバランスが効果的で心地よく、21世紀のデジタル時代のアコーディオニストの作曲であることを忘れて、バロッククラシック音楽で華やかになる前の、中世ヨーロッパの街角にタイムスリップしたような気分になった。

2022年というパンデミック時代の、特殊な世界状況が曲に反映しているのかどうかはわからないが、聞いている方の自分の中では、パンデミックとロシアによるウクライナ侵攻という、世界の歴史を変える出来事が、常に頭の中から拭いきれないわけで、現代の音楽のほうが、同時代としての自分の気持ちにも、ストレートに入ってくるような気がした。

音楽は、音の響きを楽しんでいるのではあるが、それだけではなく、やはり「祈り」なんだろう。「今」の音楽は、日本における戦後成長期やバブル時代とは異なり、様々な悲しみと不安の中をかいくぐる「ひとときの安息」といった意味合いが強く、私の中では、華やかなクラシック音楽よりも、ひとつ前の時代の音楽のほうが心に響いてくる。

で、後半の中で突出して印象に残ったのは、新倉瞳さんのソロによる「クレズマー/ユダヤ伝承音楽 Nign(ニグン)」。

ちなみに、NHKBSP(プレミアム)で朝5時から放送している「クラシック倶楽部」で、8月18日は新倉瞳さんのリサイタルだった。4ヶ月ぶりの無観客収録での最初の収録出演者だった。「楽器も私もやっと息を吹き返した」と語る彼女の表情が、喜びで満ちていた。

伝承音楽「ニグン」は、いきなりアカペラの歌ではじまった。チェリストがアカペラでいきなり歌い出す。ジャズの即興でも、これはなかなかないと思う。チェリストの「プレイズアンドシングス」が、まさかこの舞台で聞けるとは思っていなかったので、意表をつかれて深く印象に残った。

音楽のジャンルがなんであるかということは、私にとっては最初からどうでも良いことで、演奏者自身が、心の底から希求している音のありかを、その場で探り出す、いわば「その時そこでしか聞けない音楽」こそが、ライブの醍醐味である。新倉さんが探している音の根源にあるのは、素朴でありながらも、実に心情深い「生」の本質に届くような音であると実感した。華やかなクラシック音楽とは、明らかに一線を画す、シンプルながらも心に響く、深い世界観が感じられた。

アンコールで演奏されたのは、ヘンデルの「涙の流れるままに」。これまた意表を突いてグッと来る選曲で、泣かされそうになった。

個人的には、アンコール後のカーテンコールを「鳴り止まない拍手」ぐらいにしたい気持ちだったが、みんな拍手やめるの早すぎて、それが心残りだった。

レビューを書き出してから、アップまでの時間が長くなり、一ヶ月以上経ってしまったが、こんなにすばらしい演奏会が二本松であったことを、個人的に記録しておこうと思う。

あとで資料の画像上げるかも。