楽山舎通信

わたじん8の日記です

2022年10月1日(土)「令和4年度二本松提灯祭り」走り書き

2020年、令和2年の春から拡大し始めた新型コロナウイルス(covid-19)のパンデミック

その影響で、令和2年3年は、二本松のちょうちん祭りは中止だった。中止と言っても、各字(町内会)ごとには太鼓台(山車)も動き、かろうじて何らかの形は残してきたが、七町の太鼓台が揃って市内を運行し、観光客も普通に呼び寄せる「祭り」としての開催は、3年ぶりということになる。

毎年開催されるお祭りが、中2年休止ということは、歴史的にも突出した出来事であり、それぞれの字(あざ)、町内会における体制の変化、あるいは、太鼓を叩く小若の年齢層における上達ぶりの差であるとか、モチベーションであるとか、あるいは若連そのものの年齢構成上の課題であるとか、予算面であるとか、お囃子の出来栄えであるとか、実に様々な要素がどのように変化、あるいは変化していなかったのかを、自分なりにも確かめたい気持ちはあった。

この3年ぶりということが、私の中では、実に重い出来事として意味を持つことになる。というのも、昨年母親を亡くしたので、母親のいない初めてのお祭りということになる。母の死から一年が経ち、喪が明けているので普通にお祭りを向かえる我が家ではあるが、やはり、いろいろと違いすぎて、つまりは、祭りを向かえるための準備を、私自身が考えて整わせなければならないということになる。「祭りの朝って、何していたっけ?」みたいな感じである。

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第一印象は、「お囃子の音が冴えている」であった。

それは、いつもどおりの音で、多くの人には「帰ってきた」と言われるものなのかもしれないが、どうにも、これまで聞いていたお囃子よりも、冴えているように耳に伝わってくる。

小太鼓(子供3人)大太鼓(大人1人)を基本とし、これに鼓(つずみ・子供)と鐘(子供)がリズム隊としてのパーカッションとしての構成で、大事なところは、ここに入る「笛」篠笛である。太鼓は「太鼓台(山車)の中で座って演奏されているものだが、笛に関しては、太鼓台の後ろについている大人が太鼓に合わせて吹いていくということになる。

ところで、音楽の分野のなかに「ミニマル・ミュージック」というのがあって、実は私はこの類が好きで、20台の頃から聞いてきた。私の中では、スティーブ・ライヒが原点にあり、このパンデミックの期間中にパーカッショニスト加藤訓子の演奏をNHKのクラシック倶楽部で目にする機会があり、「ああ、これってあれだよね」的に、自分の中ではお祭りのお囃子のパーカッションとつながり、妙なところで、スティーブ・ライヒと祭ばやしの共通性を考える自分がいたのである。

打楽器としての和太鼓を、より強調した現代的な創作太鼓とは別の、「やっぱりここ」と自分が思う「何か」が生まれ育った土地の伝統芸能としての太鼓の演奏の中には、存在しているのである。そしてそれが、今の私の中では、スティーブ・ライヒにつながるのである。

しかし、実は祭り囃子における「花形」は、笛である。笛のない打楽器だけのお囃子は、言ってみればメインボーカリストのいないコンサートみたいなもので、何か物足りないというよりも、欠けているという話になる。

いつの間にか肌寒い夜になり、笛の音が冴え渡る夜に、それぞれが練習しつくした自慢の笛の音を響かせるということが、音楽的に見ると、この祭りの醍醐味なのではないかと思う。笛の音が響き渡るのは、実はひっそりと運行する「字まわり」のほうであり、遠くから聞こえてくる祇園囃子(ぎおん)の笛の音こそが、聞き所である。マニアックな見方ではあるが。