楽山舎通信

わたじん8の日記です

2022年、展覧会美術展鑑賞のまとめリスト

3年ぶりに、展覧会・美術展の鑑賞リストをまとめて、振り返りをしてみたい。

2022展覧会鑑賞リスト

とりあえず、まだコロナ禍の中の2022年ではあるが、17本の展覧会を鑑賞できた。

年末に改めて振り返ると、ほんとうに素晴らしい展覧会ばかりで、甲乙つけがたい。もっとたくさん見たいものはあったが、たとえば国立博物館の創立150年記念国宝展みたいに、全くチケットの取れない展覧会もあったし、東京に行ってから、ふと思いついて出向いても、当日券完売というのもあった。コロナ禍の中で、事前日時予約制が徹底され、早めに情報を入手して、鑑賞したいならば計画的にプランを練らないと、遠方の人間には厳しい世の中になってきた。

1月5日の国立近代美術館「民藝の百年」は、これが主目的での上京だった。

柳宗悦を中心とした「民藝運動」は、私の趣味の中では外せない歴史的ムーブメントであり、この展覧会をみるか見ないかの差は、大きかった。大げさに言えば、大学に行ったか行かなかったかぐらいの違いだ。

6月6日と9月11日に見た、「東北へのまなざし」も、柳宗悦がキーパーソンで、同じ展示物を一年に3回みたことになるモノもあった。そこで目にするものは、名の知られた芸術家の作品よりも、無名の民衆の、生活のために、あるいはただ生きるだけの生活に彩りを加えるための手仕事の跡であり、わらや麻で編んだ一つ一つの生活道具の片鱗を見ているだけでも、その時代の生活が思い浮かび、泣きたくなってくる。

見ていて思うのは、「豊かさ」とは何か、ということに尽きる。

現代社会のように、あらゆるモノを使い捨てにし、しかも安価な日本以外のアジア製品などの、作り手の顔が思い浮かばない製品が大量に売買され、売れなければ新しくても廃棄されてしまう。一方で、現代に比較すれば、「貧しい」と思われる100年前の手仕事によって作られた日常品は、高級なブランド物にも放てないような、奥深い輝きを持ち続けている。果たして、どっちが豊かな社会なのだろうか。

私は、民藝の100年や東北へのまなざしで目にした、何気ない日用品の手仕事の痕をじっと見ながら、どうしたらそういう時代の精神を取り戻せるのだろうと、考えないわけにはいかなかった。

フィンランドデザイン展は、あえて「民藝の百年」と対にしてみることで、日本と北欧のデザインの共通項みたいなところを探ってみたかった。

話が長くなってしまうので、ちょっと飛ばして6月19日の吉阪隆正展のことを書く。

吉阪隆正は、早大建築学科および山岳部出身の建築家である。今年チェックした展覧会の中で、これは絶対に外せないと思い、予定が合わずに最終日の6月19日(日)に、なんとか滑り込みで鑑賞できた。もちろん混雑していた。

展覧会ではあるが、圧倒的に飛び込んでくるのは、「言葉」である。もちろん、建築家の生涯を語る写真の数々や、自邸断面図の等身大パネルなどのインパクトも大きくて、その上での「言葉」ということになる。

こうして振り返ると、今年自分が鑑賞した中で、最も良かったのは、「吉阪隆正パノラみる」ということになる。展示の構成も、実によく考えられて(設計されて)、入り口で渡される一枚の紙の見方使い方にしても、「頭の良い人がやっている」ことが、瞬間的に感じられる。「おっ!」という驚きが、そこかしこに散りばめられている。と、この感想のブログは、途中まで書いて下書きリストに置いたままになっていた。書き出すと長くなるので、そちらを完成させるか。

なんで吉阪隆正なのかといえば、早稲田で山岳部だということが、やはり大きな要素だ。展示会などの写真で、自邸の様子を見た時には、これは「あり」なのかと思う反面、ある意味では、私が一介の大工としてやっていること、あるいは自邸のどこにもない独特な感じとかが、「これもあり」だと、自信をもってしまった。

よくわからないが、「この道」で大丈夫だと、確信した還暦の2022年である。今更他の道はないのだけど。

ふたつ飛ばして、ゲルハルト・リヒター

今年の展覧会総括などを見ると、外していけない展示が、ゲルハルト・リヒターだった。ちゃんと私も見てきた。様々な展覧会で目にした今年の作品で、目を閉じてさっと振り返ると、やはりゲルハルト・リヒターの作品が残した残像は強烈なものがある。展示の空間としては、ダミアン・ハーストの桜も、桜だけに特化して、しかもものすごい迫力で迫る桜の印象が強烈だったが、ゲルハルト・リヒターの場合は、その絵の深い部分に隠された精神性の重さが強烈で、とにかく強烈で、解説を見ないと、それが一体何を表しているのかはわからない抽象世界の表現でありながらも、「一体、なんだったのだあれは」という謎が消えることはなく、ただ通り過ぎることを許さない迫力があった。

同じようにインパクトが強かった作品群は、国立新美術館開館記念の李禹煥展。「もの派」といわれる李禹煥の作品は、これまた意味不明でありながらも、素通りを許さない迫力があり、ある意味では、哲学的思考を希求する空間の配置でもあり、感じる→考えるの繰り返しを迫られ、ものを置く、配置するという、ごく単純な作為の中にある哲学的な表現の深さを体感した。見る人それぞれの経験の違いが、作品の意味合いを変えていくであろうと思われる、多様な見方感じ方を包容するような、広がりがあった。

10月30日の岡本太郎展は、もう2ヶ月も経ったということが嘘のように、展示シーンが新鮮に蘇ってくる。大阪まででかけてみるかと思いつつ、結局東京での展示を見ることができてよかった。私は、私自身の中に、何か「岡本太郎的なるもの」があるのではないかと感じていて、最も尊敬する芸術家として岡本太郎を選ぶのである。正直、もう何度も見ている作品は多いのだけど、何度見ても飽きないし、発見がある。今回は、史上最大という規模だけあって、絵画・造形ともに見応えがあった。基本的に写真撮影可で、世代を超えた観覧者で賑わっていたことが、なんだかうれしかった。

同じ日に見た、川内倫子M/Eは、光の柔らかな表現が絶品の写真が多く、「誰が何を見ているか」を表現する写真という表現手段の中で、柔らかで優しさが感じられる写真に、予想外に感動した。予想外に、というのは、オペラシティにでかけたメインはコンサートで、「ついでに」見た写真展だったからだ。

そして最後に、星野道夫の「悠久の時を旅する」。

私が、古くから追いかけている、という意味では、この中では星野道夫が一番古いが、写真展を見るのは、これが初めてだった。写真集やエッセイ集は、6冊か、もっと持っているかもしれないが、どっぷりハマっているわけでもないが、若い頃の憧れだった存在の1人であることは、間違いない。

星野道夫の写真展については、ブログに書いて出したばかりなので、興味あれば

2022年12月24日(土) 星野道夫「悠久の時を旅する」を鑑賞 - 楽山舎通信

でどうぞ。

ということで、時間のない大晦日に、掃除の時間を割いてざっくりと振り返ってみた。

さあ、来年は、どんな素敵な時間に出会えるのだろうか。感性を研ぎ澄まし、今年以上に多くのことを感じられる自分を作っていきたい。