楽山舎通信

わたじん8の日記です

2020新春放談

二本松市長の新年の挨拶文が、どうにもひっかかり、新年早々すっきりしないので、「ひとり新春放談」します。

(グレーの斜体が引用)

 

新年おめでとうございます。
希望に満ちた輝かしい新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。
皆様には、日頃から二本松市政進展のために、温かいご支援とご協力を賜り、心より感謝申し上げます。

「暖かいご支援とご協力」という言葉に、なんとなく違和感がある。

「市民が主役」であるならば、市政進展のための「ご協力」というのは、筋が違うと思う。そもそも、「市民が主役」というスローガンを出してはいても、それは現実的に「主役」を意味するわけではなくて、ある意味リップサービスに近いのだろうか。

一人ひとりの充実して幸福な人生のために、協力しているのが行政者としての「市」の立ち位置である。主役が市民であるならば、行政者の長は、「日頃の行政サービスは、皆様にとって満足のできるものでしょうか?」と問いかけるのが、主役を支える者の立場としてはふさわしい。

 

昨年は、平成から令和へと新しい時代が始まり、その幕開けにふさわしく、市民の皆様が文化や芸術、スポーツなど、様々な分野で目覚ましい活躍をされました。
二本松第一中学校合唱部の「全日本合唱コンクール」での金賞受賞は、市民に明るい希望の光となりました。


市内が桜色に染まる春。
全国各地より多くの皆様を迎えて「全国さくらシンポジウム㏌二本松」を成功裏に終了、「日本一の桜の郷 にほんまつ」を全国に広めることができました。
国際交流事業においては、アメリハノーバー町との友好都市締携 20 周年を迎え、相互に公式訪問団の派遣と記念行事を行いました。
タイ王国へも公式訪問団を派遣し、国立カオキオ動物園と観光 PR などの連携協定を締結し、今後、市民レベルでの友好を深めるとともに、インバウンド推進の面でも大いに期待しております。

令和元年の良かったことの総括。

前々から「日本一の桜の郷にほんまつ」という、地域づくりのイメージに違和感がある。そして、日本全国の桜の名所をある程度理解していれば、二本松が「桜」で日本一のポジションに立つことは、不可能ではないにしても、それに何年かかるだろうかという話で、その間に、横綱クラスはさらに進歩をとげるであろうし、おおよそ50年というソメイヨシノの寿命を考えると、常にアップグレードして行かなければならないという話になり、春の一瞬の「日本一」という姿を追い求めることに、どれだけの意味があろうかと思う。

桜(主としてソメイヨシノ)に特化した公園環境づくりは、生態系の多様性という意味からは問題があり、自然公園の管理は、「桜」を主役に置くべきではないというのが、私の考えである。

永田からスカイピアに上がる山の中の市道の路肩に、この事業に沿って枝垂れ桜が100本くらい植樹されたが、それが今、どのようになっているかをみるだけでも、「日本一のさくらの郷」という事業が、バラマキに近い事業であることを理解できる。苗木1000本配って、その中の10本が将来的に残ればいい、というくらいの話である。

 

一方、台風19号の襲来により、河川の氾濫や土砂崩れが発生・交通網の遮断、断水、家屋の倒壊や農地浸食など甚大な被害が発生しました。
市は災害復旧事業などに全力で取り組み、市民の皆様の生活の再建、安全・安心の確保に向け、対策を講じてまいりました。
全力をあげて復旧に取り組んでまいります。

 

2019年の台風19号は、福島県内の死者30名で最多だった。二本松市内でも犠牲者が出た。歴史的には、東日本大震災に次ぐ災害である。このことを振り返る時、やはり「気候変動」への怖れを思わないわけにはいかない。郡山市長は、福島民報の1月1日付新年のあいさつで、台風19号から気候変動の話に言及し、「気候変動型対応都市を目指して」という、他の首長とは全く異なる具体的な抱負を打ち出していた。

県内初の「SDGs未来都市」選定であり、温室効果ガス削減への取り組みである。

私個人的には、少なくとも10年先を見据えても、もはや地球環境問題への対応こそが、最大のテーマであるべきなのかと思っている。「全力をあげて復旧」するだけではなく、根本的な課題は何かを考えて、それを行政の長として住民の意識レベルに入っていく取り組みが必要かと思う。

 

令和2年は、「東京オリンピックパラリンピック2020」開催の年です。
カヌー競技に宮田悠佑選手(東和中・安達高卒)が出場決定、
青木瑞樹選手(二本松一中卒・安達高校)も一昨年インターハイで優勝するなど、今後の活躍が大いに期待されます。
二本松市は「ありがとうホストタウン」としてクウェート王国の受入れを決定、
クェートから東日本大震災原発事故の義援金として日本に400億円相当、500万バレルの原油を寄贈頂き、その中から福島県に日赤を通して155億円、アクアマリンの整備にも155億円を支援を頂きました。
デンマーク王国のホストタウンも内定しております。
デンマーク王国は、教育大国、環境大国であり、
食糧自給率300%、エネルギー自給率150%、
アンデルセンの童話の国でもあります。
オリンピックのレガシーとしてスポーツ・文化を通じ、交流を深めてまいります。

市民が集まってオリンピックで話題になるのは、「なんで二本松市が聖火ルート外れているのか」である。周囲の自治体はすべて通るのに、「あれ、なんで二本松抜けてるの」である。まあ、政治的な裏話は、いろいろとあるのだろうと推察する。市長に力がなかったというのが、大方の見方である。

そして、クエートからの義援金。アクアマリンに155億。いや、それ絶対間違ってるでしょう。総工費全額を、復旧のためにクエートが出す。ありえない。フェイスブックのコメントに「間違いでしょ」と指摘しても、未だに修正されず。

新年の挨拶文に、クエートとデンマークの脚注的内容をここまで書くべきとは、私は思いませんが。

だったら、同じ文字数で書くべきことがあるのではないでしょうか。

 

「子どもは市の宝、若者は市の未来、高齢者は市の誇り」
これを基に力強く二本松市を成長させてまいります。

何度読み返しても、違和感がある。

「市民が主役」という大前提で来ているのに、この文章では「子ども<市の」「若者<市の」「高齢者<市の」と、常に「市」という大きな存在にとってのそれぞれの役割を与える形になっている。まあ、一言でいえば「余計なお世話」である。今どき、こういう価値観で多様な住民を見ている首長は、感覚が時代遅れであると言わざるを得ない。一人ひとりの人生は、すべて多様に自由であって、高校卒業と同時に、二本松を離れて二度と戻ることなく世界に羽ばたくのも、生き方である。それぞれの生き方は多様であり、それが「主役」としての市民であるならば、行政の枠組みとしての「市」が、それを「宝」だとか「未来」だとか「誇り」だとか、イメージを押し付けるものであってはならない。尊重されるのは、それぞれの人の多様な生き方である。ただし、その多様性の行き着く先は、今の時代でいえば「人類の持続性」への意識を、根底に持つか持たないか、そこだろう。「二本松市」などという行政単位は、歴史的に見れば「仮」の場所でしかなく、未来に対しても意味を持たない。


◇子どもを産み育てることに夢の持てるまち

それはどういう姿なのかを、具体的に示さないと意味がない。「夢」って何? そして「夢」持ってるだけでは意味がない。一日一日、一瞬一瞬に、「二本松」という「場所」と人間関係の中における「ありがたさ」を感じていけるのか行けないのか、夢よりも現実の一瞬一瞬が充実したものにならないと、幸福感は生まれない。


◇日本一の「健幸長寿延伸都市・二本松」の実現

必ずしも、長寿が良いとも言えない時代に入っていく。右肩上がりの医療福祉予算が、国家財政を圧迫することが確定し、年金の減額、支給開始の先送りなしには、制度そのものが破綻するという未来像である。「ピンピンコロリ」こそが、人の生き方としては理想である。寝たきりにならずに、介護されずに幸福に生涯を全うするモデルは、具体的にはどのような姿かを示し、「ああ、そんな生き方したいね」と思う住民を増やす努力が必要になる。このようなスローガンだけでは、何もすすまない。


◇高齢者・障がい者福祉の充実、
 福島県特別支援学校の整備

障がい者福祉の充実が、具体的にどのような姿をイメージするのかがわからないが、一般の健常者と区別なく暮らせる自治体ということをイメージすると、まだまだなのかなという気はする。

◇教育の充実と人材育成
 杉内多目的運動広場・サッカー場の整備

行政としては、教員の過剰な負担を軽減し、拡大傾向の格差社会の中で、現行の教育システムの中でこぼれ落ちていく生徒たちへのサポートとケアを意識していくことが大事なのかと。基本的に、「できる子」というのは、担当する教員のレベルを超えた存在であることもあり、カチっとしたシステムの中で才能を殺さず伸ばす方法は何かを指針として決めておくほうが良いかもしれない。


◇農業の再生と有害鳥獣対策

農業は、とりわけ福島の場合は、抜本的な改革の時代なんだろうな。テコ入れする部分と、諦める部分の選別。すべてを再生することが、果たして近未来への投資として正しいのか。

私は、基本的には「撤退の農村計画」を支持している。いわゆる限界集落等で、「もう、いいんじゃない」って言う場所は、固執せずに撤退し、自然に戻す。これでよいでしょう。昔ながらの農業スタイルに、補助金を注ぎ続けることは、無駄に思えてならない。もちろん、中山間地域における環境の持続性のための補助金(ヨーロッパ的)、直接支払制度は、その成果を検証しつつ、必要なものは続ける意味はあるのだろうが、如何せん、放射能汚染のダメージが強い二本松の東側エリアは、緩やかな撤退の計画はありじゃないかと思う。これは、コンパクトシティという流れに連動するのだが。


◇商工業・観光、産業の振興、温泉地観光施設の整備

「元気な市」を維持する上では、ここの政策が最も重要か。まあ、ほんとうに時代の移り変わりが激しくて、高度成長期のような姿というのは、もはや過去の栄光レベルの二度と来ない時代の話であり、いかにダメージ少なく町や商店をたたみ、人の暮らし続ける場所として維持していくかという話。二本松市の商業エリアは、教科書的なDID地区、都市計画上の商業地区とは無関係で、この歴史の流れに逆らうのは、難しい。

この項目は、下にでてくる「新しいまちづくり」としての民間資本の大型店舗開発が主となるだろうし、ある意味では、過剰な大型店どうしの食い合いになっていくと予想される。その先に待っているのは、果たして繁栄なのか没落なのか。まあ、大玉にプラントができ、安達にベイシアが来た時に、つぶしあいでプラントは消えるみたいに言っていた人も少なくなかったが、現時点では共存できているし、大玉村も旧安達町(油井)も人口を増やしている。ショッピングセンターの利便性が、居住環境の魅力をグレードアップするというのは、歴史的事実だ。


◇雇用の確保
 企業誘致
 杉田長命工業団地の整備

市長のトップセールスで企業誘致を勧めてきているけど、契約に結びついた案件はいくつあるのだろうか。工業というか、IT時代の企業誘致は、新しい産業についての知識も求められるかな。


◇二本松駅南口広場と道路の整備、新しいまちづくり
 杉田駅周辺整備、
 安達駅西口まちづくり
 民間開発によるまちづくりの推進
 「メガステージ二本松」による新たな商業施設の整備
 「ホテル ルートイン」の建設 

二本松駅南口、ついに動き出すのか。ある意味で、本町の市街地としての再生は置き去りにされる感じなのか。「新しいまちづくり」っていうのは、既存の市街地エリア以外でのまちづくりを指すのだろうな。


二本松城跡・二本松城文化観光施設の整備
 二本松城三の丸御殿復元の推進

二本松城エリアに、何らかの通年営業施設が必要というのは、駅前の交流センター計画のあたりからあったような気がするが、菊人形と桜で訪れる人以外への対応という点でも、裏側のスポーツ施設群とは別に、ビジターセンター的なモノは必要。

三の丸御殿復元というのは、時代が時代だけに、新調に推進すべきじゃないかと思うが。


◇安全で快適な道路交通ネットワークの整備

大きな話で言えば、国道4号線の安達ケ原入り口の慢性的な渋滞緩和のために、国に対してどんどん働きかけと提案を出していったほうがいいのじゃないかと思う。あの場所は、国道4号東北本線阿武隈川が並行して通る「ノド」であり要所なのだが、その上、大雨時には冠水する危険性のあるエリアでもある。高架で通してしまう、というのが、安達が原への橋によって不可能なため、まあ難しいけど。

 

「市民が主役。市民とともに。」

全く個人的な趣味の問題だけど、現市長が選挙の時からキャッチフレーズにしている「市民が主役」という言葉、違和感を禁じえない。そもそも、「市民」というのは様々な多様性のある住民を、行政単位としての「市」に紐付けた名称であり、それが具体的に「誰」なのかというと、極めて抽象的であって、その一人ひとりが主役である、などというのは、言葉の定義としては成立しない。そして、様々な会合にあいさつで出席する市長は、どう見ても「私が主役」になっていると感じる。あくまで個人的な感想。

この時代、大衆迎合的なことを言わず、八方美人にならず、己の哲学を信じて引っ張っていくリーダーの方が求められる。「市民の言うがまま」の政策は、一つの道筋を追い求めるには漠然としすぎていて、将来路頭に迷う事案がいくつも出てくるだろう。


「二本松の大改革」

どの状態からどういう理造像に「大改革」を目指すのかよくわからないが、「市民が主役」というとき、ここで考えられる「大改革」はほんとうに必要なのかどうかも判然としない。


「五十年、百年先、次世代を見据えた新しい二本松市づくり」を推し進め、
「市民の誰もが元気で心豊かに暮らせるまち」
の実現に向けて渾身の力を込めて取り組んでまいります。

50年先と100年先、半世紀と1世紀では、つまり50年前と100年前では全く違う時代だったということ以上に、「見据える」ことが困難なほど時代の変化は激しい。「見据える」ということは、50年先100年先にあるべき理想の姿というものが見えている上での話になるが、まあ、ぶっちゃけ、自分の死後のことまで冷静に想像できる人が、どこまでいるだろうか。

やはり、気候変動とエネルギー問題、生態系そのものの問題、そして、AIに支配されていくかもしれない人類の未来みたいなことを思うと、それほどお花畑な50年後が待っているようには、私には思えない。自治体としては、エネルギー問題に手を付けて「新エネルギー」政策を率先して推進するというのは、為すべきことだと思うし、二本松市もそういう方向性で動き出しているのに、あえてここでそのテーマを持ち出さずに濁しておくのは、どういう背景によるのだろうか。将来のエネルギー問題を解決する道筋を示す、そのことだけでも、十分に立派な政策になると思うが、どうなんだろ。

 

「二本松に.は夢がある。希望がある。明るい未来がある。」

夢、希望、明るい未来。なんとなく、前向きになるイメージだけど、具体的に何? かは、わからない。なんというか、今どきここか?

夢も希望も明るい未来も、個人個人それぞれであって、持っている人もいれば、新年から絶望の縁にいるひともいるし、考えることさえもできない人もいる。「市民」という言葉が含む、多様な生きざまを思い浮かべれば、そう簡単に「夢」とか「希望」とか「明るい未来」なんて言葉は、使えないと、私は思うが。ここで「いいね」と終わってしまうようでは、それは「思考停止」以外のなにものでもないだろう。

今、ここからの時代は、震災からの復興10年「バブル景気」からの切り替えになるわけで、よほど繊細に物事を見つめていかないと、気がついたら、そこは壮絶な格差社会に入り込んでいるという危険性は、少なくない。現在の国政は、まさにアメリカ型の格差社会を後追いしているようにしか見えず、地方行政も、何も考えていないと同じ方向に進むしかないのだろう。

 

新年が皆様 にとって笑顔が輝き、希望に満ちた健康で「しあわせ」な年となりますよう心からお祈り申し上げます。

 二本松市長 三 保 恵 一

 

祈っていてもしょうがない。「しあわせ」を、ともに作っていくんだよ。市長は、象徴ではなくて、行政執行者なわけで、やらなきゃ意味がない。「しあわせ」は祈るものじゃなくて、つくるんです。