楽山舎通信

わたじん8の日記です

2022年9月11日 ヴェルディのレクイエムを聞きにNHKホールへでかけた

2022911日(日)

ヴェルディのレクイエムを聞きに、渋谷のNHKホールに出かけてきた。

イタリア人指揮者のファビオ・ルイージが、NHK交響楽団の主席指揮者となったことを記念する定期公演。曲目は、なんとヴェルディのレクイエム。ヴェルディと言えば、椿姫やリゴレットなどのオペラが有名で、演奏機会が多いのもオペラ作品。オペラ鑑賞には手を出していない私であるが、いい歳になってきたし、そろそろオペラも見てみたいと思ってはいる。しかし、その前にレクイエム。

ヴェルディという作曲家の音楽に最初に打ちのめされたのは、大学生の頃で、曲は「聖歌四編」。これは、アンドレイ・タルコフスキーの映画「ノスタルジア」において、クライマックスに観客を打ちのめすように登場する、印象的な音楽だった。それがヴェルディの音楽との出会いだった。「聖歌四編」をいつかは生で聞いてみたいと思っていたが、演奏機会が来ない。

ヴェルディのレクイエムを、N響がファビオ・ルイージで演奏するという情報を見た時に、これは逃せないとチケット発売開始をチェックしていた。

パンデミックで、海外のアーティストの演奏が実際に開催されるのか否かが直前までわからない状況でありながらも、チケットだけはとっておく。ということになり、この日を待った。

レクイエムは、ヴェルディ60歳の時の作品で、私もちょうど60歳で、「死」というものに対して本気で向き合う世代となり、このタイミングというものは、「降りてきた」と言って間違いないような機会であると考えた。そして、母親のつらい死から一年になる。

演奏は、非常に微細な音と、これ以上出せないというほどの大音量が効果的に繰り返され、フィナーレは静かに消えゆくように終わってゆく。CDで聞いていると、このフィナーレがどこで終わっているのかわからない印象で、CDのカウンターの秒刻みだけが数分進行するという感じだったが、生で聞くと、この「鳴っているかいないかわからない」演奏がちゃんと聞き取れて、ベートーヴェンの作品の終わり方みたいな「終わり終わりジャンジャン」って感じでもない終わり方の、静かなる感動というのを味わった。

演奏前の館内放送で、「演奏終了後の余韻までお楽しみください」という一節があり、それは、このフィナーレで、早めに拍手するなよ、ということを暗に注意していたのだった。あの長めの余韻を、早めの拍手で遮ってしまっては、台無しになる。コンサートライブにおける拍手のタイミングというものは、指揮者と楽器の間の合わせ方同等に重要であり、間違っても拍手を入れてはいけないタイミングというものがある。拍手というのは、聴衆による言葉というか演奏でもあり、演奏の終了においての一体感と余韻を盛り上げるためにも、タイミングは重要である。

オーケストラの音が消え入ってから、ファビオ・ルイージが振り返るまでにずいぶんと時間があり、つまりはその時間が「余韻」であったのだが、振り返る前の一瞬に誰かが最初の拍手を初め、そこから雪崩打つように拍手の渦が巻き起こり、同時にファビオ・ルイージが客席に振り返って笑顔を見せた。

この拍手は、やがてカーテンコールに続き、少なくとも5度はファビオ・ルイージソリストを舞台に登場させ、その後合唱団の最後の一人の姿が見えなくなるまで続いた。その間、10分から15分くらいはあったかもしれない。

「鳴り止まない拍手」というのは、演奏会の満足度を伝える言葉であるが、ここまで鳴り止まずに力強い拍手というのは、私は初体験だったし、N響鑑賞の常連と思われる方々の熱意の高さを感じた。客席の3分の1くらいの人は、オーケストラが退席してしまうと客席を立って帰ろうとしていたが、その後、ステージの奥に立っていた合唱団に拍手を続けていた人が、半分くらいはいたことに、これは聴衆のレベルも違うなと実感し、私も立ち上がって最後まで拍手を続けた。一連の長い拍手喝采は、ここまで続いた。

レクイエムは、鎮魂歌であり、宗教曲でもあるのだが、2022年の911日であるということの意味、パンデミック、ロシアによる武力侵攻と殺戮、あるいは、理不尽なテロリズム

そして、一人ひとりの人間にとっての、家族や最愛の人に対する鎮魂と祈り。

このレクイエムは、私にとってはメゾソプラノがとにかく秀逸に感じられた。最初に声を聞いた時から、これはやられると思いつつ、なんとか堪えたが、目頭から自然に落ちてくる涙を何度か拭った。

ファビオ・ルイージの魂のこもった指揮で、イタリアの真髄を見た気がした。まるでそこに、ジュゼッペ・ヴェルディが降りてきていたような感覚だった。