楽山舎通信

わたじん8の日記です

2022年8月18日

母の告別式から、ちょうど一年になる。

PCに残してある写真を振り返ってみる。当然といえば当然なのだが、葬儀の際の写真は1枚もない。携帯電話、スマートフォンで簡単に写真が残せる時代になっていても、自分の身内が闘病し、あの世に向かう時間を写真に残すということは、身内の身では、なかなかできない。写真に残していると、成仏できなくなる、みたいな伝説もあるか。

葬儀の時の写真はないが、自宅の祭壇周りの様子、お墓の様子などは記録してある。今にして思えば、葬儀の時の様子も写真に記録しておくべきだった。祝儀と違い、不祝儀は写真に残らない。参加した親族の、それぞれの記憶の中にしか、その時の様子は残らないものなのだろう。そうして、何かの折に集まった時などに、ものすごく細かな記憶の断片がそれぞれの言葉として折り重なり、当日の様子がありありと浮かんでくるのである。

思い出を語るその場面では、1枚の写真もいらないかもしれない。

我が家に残っている古い写真なんかを見てみると、実はけっこう葬儀の際の写真が残っていたりする。

親戚縁者が一斉に集まるのは、冠婚葬祭の場ということになり、不祝儀ではあるけれども、記念撮影として集合写真を残している。遠い親戚が「どこの誰」かを確認できるのは、ある意味で葬儀の場面しかない。

結婚式に比べて、葬儀の際の「縁者」の集まりは実に奥深く、言っていれば、その時だけしか会わない縁者というのが、たしかにいる。滅多に顔をあわせない人の、生涯に1度2度の機会が、葬儀なのである。であれば、その貴重な機会の集合写真を残すことには、やはり家族の歴史を残すという意味でも、価値があると私は思う。

といっても、残念ながら1年前の一連の葬儀の中で、人が入った写真は1枚もない。

写真が貴重だった時代と、写真がありふれた現代社会の違いが、記録の差にあらわれてくる。きちんと記念写真を残して、それを「焼き回し」プリントしてそれぞれの参加者に送る時代は、今にして思えば「のどかな」時間の流れなのだが、その写真は参加者それぞれの中でだけ共有され、「ネットで拡散される」という心配がなかった。

しかし、今の時代の「写真」というか「画像」は、瞬時にネットで拡散される性質のものであり、「個人情報」の取り扱い上でも、「簡単に撮れる写真」を、簡単には撮れなくなってしまっているのである。もっとも、スマホで撮るのではなく、一眼レフやコンパクトカメラなどできちんと撮影する手間をかけ、さらにはプリントして配布するという手間をかけると、SNSで拡散するということはない。というか、そもそも、家族的な葬儀をSNSで拡散ということは、ないに違いないが。喪主である私が、ブログで写真をアップすることのほうが、個人情報に関わる場面もあるわけで、問題があるかもしれない。

従兄弟(いとこ)までは、まあわかるとして、再従兄弟(はとこ)になると、これは合ったこともない人というのがいるわけで、接点がどこにあるのかをきちんと理解していないと、けっこう失礼な対応をしていたりする。「昔、何かあった」ことを、親から伝えられていないと、向こうはわかっているが、こっちはさっぱりわからない、なんてこともある。

遠い親戚に、有名人がいたり、なんてことは残念ながらないが、個人的には、渡辺貞夫さんの顔を見ていると、我が家の祖先の顔の系統とかなり似ていて、姓も同じことから、他人ではないという気がしている。NHKで放送している「ファミリーヒストリー」みたいなことで、私の祖先をたどってほしい気持ちが半分、知りたくない気持ちが半分。まあ、知らないほうがいいかもしれない。