楽山舎通信

わたじん8の日記です

安達太良山頂の「八紘一宇」の石碑が崩れ落ちた令和3年

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崩れ落ちた「八紘一宇

 

安達太良山の山頂まで登ったことのある人ならば、山頂の印として目にしていたであろう、「八紘一宇」と書かれた立派な石碑が、崩れ落ちた。

私が自分の目でこれを確かめたのは、令和3年(2021年)5月6日のことである。しかも、崩れ落ちたのは石碑だけではなく、お社の屋根も落ち、もっと驚くことにコンクリートと石でできた大きな方位盤が倒れていた。

これは、今年の2月13日の福島県地震の被害ではないかと思われる。SNSなどに出てくる山頂の写真が、最近何か足りないと思っていたのは、この変化だった。もっと早く気付くべきであった。というか、このことは、知っている人には、すでに常識化していることかもしれない。3ヶ月も経っている。

普通ならば、2月から3月の冬山シーズンに、一度二度は登っているはずの私であったが、新型コロナの影響もあり、仕事に追われて余裕もなく、大好きなスキー登山と雪山登山は封印していた。

二本松市に住む私にとって、安達太良山は言うまでもなく「ホーム」であり、山岳部員だった高校卒業までに、32回の登山を繰り返していた山である。

最近は、年2回か3回、しかもほとんど雪のある季節しか登らない地元の山になってしまっていたが、還暦寸前になり、やはり良い山であるなと、登るたびに実感を強くしているのである。

さて、「八紘一宇」の石碑とは、何であるか、である。

改めてこの石碑を見ると、「紀元二千六百年記念 昭和十五年八月 安達郡青年團建之」とある。

ネットで探ると、「紀元二千六百年記念行事」というのがウィキペディアにあり、大雑把に言えば、安達太良山頂のこの石碑が建立(建之)されたのも、記念行事の一環であったと思われる。

石碑の「八紘一宇(はっこういちう)」とは、「天下を一つの家のようにすること」「全世界を一つの家にすること」を意味するらしい(ウィキペディア)。

同じウィキペディアのページの中にある「概要」では、

「「八紘一宇」とは第二次世界大戦中、日本の中国・東アジアへの侵略を正当化するスローガンとして用いられたと記す。」

とあり、このあとにも、この言葉が持つ、戦争との関係性、あるいは根本理念としての「平和」との関係性などが記されている。詳しくはウィキペディアのページを参照のこと。

八紘一宇(ウィキペディア)

 

さて、ここからが本題である。

私は、しばらく前から、この石碑「八紘一宇」を撤去すべきではないかという意見を持っていた。

日本の山は、信仰と結びついたものが少なくなく、山そのものが信仰の対象であり、神聖な場所として受け継がれてきた。富士山を筆頭として、山頂に立派なお社(神道)を抱える山も少なくない。

私は、信仰の対象としての「山」あるいは「頂き」の存在については、否定的な意見は持たないし、それが「日本」という国と「山」の結びつきにおける、自然な姿なんだろうと理解している。「八百萬(やおよろず)の神々」が宿る、日本の自然。それは尊いものであり、「山に登る」という営みが、単なるスポーツとしての意味だけではなく、人間の精神と結びつく、一言では言えない深くて広い体験なのだとは思う。

しかし、「八紘一宇」が示す「祈り」というものは、そういった原始的な信仰とは、何かが違う。

そして、「八紘一宇」という文字の石碑が今も残ることに、違和感を禁じえない。

イメージとしては、やはり「大東亜共栄圏」を目指した、昭和15年あたりの国家のスローガンであり、それを令和の時代に入っても残しておくことに、違和感を禁じえないのである。

2020年2021年、ある意味で、世界はこれまでと全く別の「世界」を経験している。そして、今まで以上に「世界は一つ」であることを認識せざるを得ないのである。それは、意味の上では「八紘一宇」における「世界は一つ」と同じなのであるが、軍国的に「一つ」を目指すという方向性とは、全く違う。

今、この時に感じる「世界は一つ」とは、新型コロナウイルス(covid-19)による世界的流行、「パンデミック」が人類そのものの生存に与える影響の大きさと、その背景として語られる、人類が地球に与え続けてきたダメージの深刻さによってである。

ある意味で、全く次元の違う時代に突入しているとも言え、「人新世」というキーワードにも注目が集まっている。地球環境に対する、人の影響力が悲劇的に増加していることを示す。

新型コロナウイルスにしても、二酸化炭素の増加などによる気候変動にしても、地球上の人類に共通して影響する問題なのであり、「私は私、あなたはあなた」では片付けられない話になっているのである。

令和3年、こういう時代の中で、「八紘一宇」の石碑が崩れ落ちたことは、意義深い。

間違っても、これを元通りに建てないでほしい。歴史をそのままに受け止めるのであれば、崩れたままで放置しておくというのも、私としては「あり」だと思うが、日本百名山で登山者数もファンも多い安達太良山の山頂であれば、このまま放置というのは、ありえないかもしれない。

石の重さを考えると、撤去する場合には、ヘリコプターが必要になるのかもしれない。あるいは、石工によって砕いて人力で降ろすとか。

いずれにしても、「もとに戻す」という安易な方法は選択しないことを求める。

石碑を含めて、山頂の景観をどうするかは、一般の登山者などの意見も踏まえながら、関係者だけの密室の会議で決定するのではなく、民主的に開かれた方法で決定してほしい。

繰り返すが、私はこの石碑を撤去すべきだと思っている。