楽山舎通信

わたじん8の日記です

令和3年8月18日 母の告別式にて

新型コロナ禍で、参列はほぼ親族のみとなった告別式の喪主挨拶をWEBにおいておきます。

皆さん一様に、元気だったのになんでそんなに早く・・と、驚かれますので、このひと月ぐらいのことを挨拶の中で話しました。

 

本日は、皆様方には、何かとご多用のところを、わざわざご会葬下さいまして、誠にありがとうございました。

また、母の生前中は、皆様より格別のご厚情を賜りましたこと、心より感謝申し上げます。

 

今年の六月に入った頃、母は、なんだかお腹の調子が悪いと言い始めました。

その頃はまだ、以前と同じように自分で車を運転して病院に行き、買い物も朝の散歩も、仕事も普通にできていました。

六月の中旬を過ぎた頃から、目に見えて体調が悪化しはじめ、仕事もできなくなりました。

様々な検査を受けて、七月のはじめに、お腹に溜まった水を抜くために入院しました。

五日ほどで退院してきた母は、「身体が軽くなって何でもできそう」、というほどに元気になりましたが、食欲が戻らず、七月一三日に、福島医大病院での診察で、膵臓がんらしいことが告げられました。

その時母は、自分で「余命はどのくらいですか」と医師に尋ね、「このまま何もしなければ六ヶ月です」と宣告されました。

しかし、まだ自分で歩けていたし、会話もしっかりしていて、治療できる体力だったので、詳しい検査を踏まえて、抗癌剤治療に入る予定でした。

ところが、それから二週間後の最終検査を待たずに、東京オリンピック開会式の翌日、七月二十四日の未明に、母は息苦しさを訴え、救急車で医大病院に運ばれました。

医大救急救命センターで、診察と治療を受ける中で、担当した医師は、私に「もう帰れないかもしれません」と言いました。がんとは別に、血栓ができてしまい、それが肺に回って血管を塞いでいる状態でした。

新型コロナ感染症が県内でも爆発的に拡大する少し前の医大病院の救命センターで、家族だけが個室の集中治療室(正確にはICUではなくHCU)に通され、もしかすると、これが最期なのかなと、一度はそこで別れを覚悟しました。

余命半年だった母の生命が、明日死んでもおかしくないという状況に追い込まれました。

医大病院で一週間。肺の機能がなんとか回復し、リハビリもできるようになった母は、二本松の枡病院に転院できました。

 

そして、母の八十五歳の誕生日だった八月一日には、病院からの一時帰宅で、近親者を集めての誕生会、母のための音楽会を催しました。この時の、母の喜びようを、忘れることはできません。

残された短い時間の中で、ただ死を待つのではなく、生きているということの喜びを、自分の人生を共に過ごした、愛すべき人たちと味わうということが、どれほど尊いものであるかということを、私もその時、痛切に感じました。

 

そして、自宅で緩和ケアできる体制を駆け足で整え、八月五日に、母は自宅に戻りました。そこから最期の十日間を、ある意味では、とても明るく、賑やかに過ごすことができました。

八月十四日のお昼過ぎ、すやすやと眠っていると思っていた母が、ふとした瞬間に、穏やかに、安らかに、深い眠りへと入って行きました。

今にして思えば、この別れは、母や、私たちが思い描いていた、理想的なお別れだったように思います。

病床に伏してからも、明るい性格はそのままだった母の遺志を受け継ぎ、残された私たち遺族一同も、母から頂いた、このかけがえのない生命と御縁を大切にし、これからの一日一日を大切に生きていきたいと思います。

皆様方には、母の生前同様、今後もご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

本日はありがとうございました。