楽山舎通信

わたじん8の日記です

「安心して死ぬ」こと

最後に入院した、地元の病院の担当医に当てた文書を、上げておきます。

結局この文書は、出せずに終わりました。思ったよりも早い展開で退院することができたので。

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母親の終末期看護にあたり、先生及びスタッフの皆様の日夜に渡るお力添えに、感謝いたします。ありがとうございます。

母は、7月24日土曜日の早朝(深夜2時)に、救急車にて医大病院に運ばれ、その時担当の救急救命の医師からは、「戻れない」と言われましたが、血栓肺塞栓症に関しては、なんとか一命をとりとめて、医大病院から転院が可能な状況となりました。

しかし、この段階でやっと診断の出た膵臓がんに関しては、末期ということで、予後は一ヶ月を切る状況です。

昨日、8月1日の誕生日に一時帰宅しまして、会えなかった兄弟や孫などとも顔をあわせ、これはある意味、永遠の別れが近づいている人間としての、けじめの時間ともなりました。

母親の病状が、刻一刻と悪化していくのを見ながら、残された時間は、ほんの僅かなものかもしれないと悟りました。

となると、意識がしっかりしているうちに、少しでも自分の家にいる時間を長くしたいという気持ちが強くなりました。

「在宅で看取りたい」という私達の意思は、医大の先生にも伝えていましたが、母本人は、私達の苦労を気遣ってか、医療機関での最後を希望しているようです。

しかし、それでは私達が報われません。

なんとしても、自宅で看取りたい、いや看取ります。

もう、時間がないので、その方向でのお力添えを、強くお願いいたします。

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ガン患者の終末期を自宅で迎えるためには、様々な条件を整える必要がありました。

入院していた病院は、退院として送り出してしまえば、その後は関わりません。在宅で看取るためには、往診してくれる担当医と、24時間体制で訪問看護できるスタッフを確保することが、最も大事な条件でした。

在宅医療の様々な条件を、一括して準備するために、「地域包括支援センター」を介して、地元のケアマネージャーからの支援を受け、このケアマネージャーが極めて迅速に、全ての条件を整備してくれました。

自宅で看取るということは、子供である私たち兄弟や孫などが、それぞれの時間をやりくりして常に誰かが母に寄り添うということと同時に、地域の中で、専門のスタッフや母自身も信頼を置く往診の医師が対応してくれたということが、とても重要な要件でした。

「安心して死ぬ」

そのために、病院の病室を選ぶか、自宅を選ぶか。

これは、それぞれの条件が違うので、一概にどちらが良いということはできませんが、コロナ禍の今の病院は、いくらなんでもつらすぎます。顔も見れない状況。病院を信頼する以外にないわけです。

我が家の場合は、たまたま「治療は何もしない」という方針での予後だったので、痛みに苦しむこともほとんどなく、10日間という短い間でしたが、思い描いていた看取りへの道を歩むことができました。

病室でモニターや管につながれて、心拍数や血圧の異常を察知して、それなりになんらかの処置をするというのは、終末期におけるスタンダードなのかもしれませんが、病院にあるような機器とは無縁の自宅のベッドで、わずかなスキに「あれ、息をしていない」と気がつく瞬間の刹那さというものも、「死の瞬間」の捉え方としては、悪くはないように思います。ちなみに、その瞬間に、母の耳元ではいい感じに癒やしの音楽がかかっていました。

その瞬間の、母の穏やかで微笑んだような寝顔(死顔)こそが、そこまでの時間を、母のために精一杯つくしてきた私たち家族にとっては、「救い」でした。

最愛の家族との永遠の別れは、もちろんつらいものではありますが、悔いのないように、残された時間を精一杯寄り添って、普段だったらできないような、臨死だからこその対話ができたことも、人の死がもたらす、「救い」のひとつとなりました。

良くも悪くも、死んでしまった母にとっては、それらの短い時間の出来事は、「思い出」ともいえないぐらいの、一瞬の瞬きのようなものでしたが、その記憶は、同じ時間を過ごした私たちの中で、生き続けていくのです。

「安心して死ぬ」ということは、本人以上に、残された遺族にとって、実に重要なことだと、私は母の看取りを経験して、強く実感しました。