楽山舎通信

わたじん8の日記です

母の最後の誕生日

8月1日、日曜日は、母の85歳の誕生日だった。

7月24日に、救急搬送で医大病院に入院し、歩けない身体になってしまった母は、なんとか一命をとりとめた反面、残された時間が、ごく短いものであることを、たぶん母自身も、私たちも理解した。

医大で、HCUから病棟10階の個室に移った母は、iPhoneのLINEを使って、状況を伝えてきたが、医大病院の看護体制が手厚く、メンタル的には落ち込んでいるようには見えなかった。

しかし、肺の状況が改善すれば(酸素飽和度の改善)、ガンに関しては治療できない末期状況だったので、地元である二本松の病院への転院を勧められた。これが7月30日のことだったが、私は、母の誕生日会、しかも最後の誕生日を自宅で祝ってあげたいと思い、兄弟で相談して準備をすすめた。

誕生会の会場は、リビングではなく、母の「城」といえる、美容院のお店の中しかないと決め、そのために物理的な改造を含めた準備を進めた。孫のバイオリンとチェロの演奏会を企画し、その音の響きを最善のものにするために、店内を、建築当初の高い吹き抜けに戻した。建築から4年後に、冷暖房効率を優先するために、吹き抜けに中二階を作っていたのを撤去した。

8月1日は、暑い日だった。酸素ボンベをつけたままの母を、病院から車イスで連れてきて、お店に入った瞬間の母の喜びようを、忘れることはできない。

母は、自分の葬式で、「孫のチェロとバイオリンを演奏してほしい」と言っていたが、死んでからでは意味がないので、最後の誕生日にそれを実現させた。

近親者20名ほどを集めて、わずかな時間の演奏を楽しんだ。

入院してから会えなかった近親者にとっては、母の衰えた姿を見るのはつらいことになったが、会話は普通にできるので、それぞれと久しぶりの会話をする機会となった。そして、それは場合によっては最後の会話となり、生前のお別れ会的なものにもなった。

もう、あとひと月も生きられないとわかった状況で、生前のお別れ会ができる環境というのも、このコロナ禍の時代にあっては限定的なものになってしまうが、それでも、これが実現できたかできなかったかでは、いきなり末期ガンを宣告された母の人生の輝きに雲泥の差がつく。

「終わりよければ全て良し」「有終の美」という言葉の意味を、これほど感じた日もなかった。

母の人生のピークは、私たち3人の子育てと、3人ほどの店員がいて狭い店(面積的には狭くはない)の中で忙しく働いていた昭和40年代から50年代だったと思われるが、そんな人生のラストに、サプライズで最高の喜びを味わえる時間があることの価値は大きい。

しかも、その場所は、6月の半ばまでは、母が「趣味」だったという美容師の仕事をしていた店の中である。

病院に出していた外出予定時間まではまだ間があったが、酸素ボンベの残量が切れてきて、慌てて病院に戻ることになった。

この時の病室は4人部屋で、母以外の3人は、胃ろうで意識もはっきりしていない人ばかりだったらしく、その話を聞いて、速攻で個室に移してもらった。病院側から、最初にその状況の説明が欲しかった。「死ぬ」のを待っている時間を過ごすのではなく、意識もしっかりしていて、一日一日をそれなりに懸命に生きているわけで、メンタル的にも、多少高額でも最初から個室にこだわるところだった。4人部屋から個室に移ったことで、母から来るLINEの量が増え、明るくなった。

安積女子高等学校出身の母は、たぶん、若い頃から音楽が好きだった。私が子供の頃から、台所に立って調理や片付けものをしている時の母は、ビブラート利かした鼻歌を歌っていたのが印象的だった。

母が自分で戒名を考えた時にも、「音楽」という文字を最後に入れてきたが、最終的に授けられた戒名は、「音浄院・・・」と、音が最初に来るものとなった。

今頃あの世で、母は、ビブラート利かした鼻歌でも歌っているのだろうか。