楽山舎通信

わたじん8の日記です

2022年6月5日(日)二本松市議会議員選挙 結果を見て

2022年6月5日の、二本松市議会議員選挙の結果を見て感じたことを書いておく。

定数22に23人が立候補。現職19人、新人4人が立候補し、新人の一人が落選した。

新人の一人が落選というのは、予想通りだったが、その落選した一人が、私の予想とは違っていた。この選挙期間中、私は自宅にいることが多かったが、中心市街地にある私の自宅の前の道路は、選挙カーが頻繁に通る道路で、まるでお祭りのようににぎやかだった。1日に複数回通る候補もいれば、選挙期間中に一度も名前を聞かなかった候補もいる。市議会議員候補のエリアは、市内にまんべんなく拡散していて、必ずしも「陣営外」のエリアに行かなくても票が取れると見ていた候補もいたのだろう。

一度も名前を聞かなかった新人候補が落ちると見ていたが、その新人は、断トツで最年少40代ということもあってか、1893票を取ってトップ当選した。

このことが、私には予想外で、いや失礼ながら落選する新人と見ていたぐらいなので、「そうか、そうきたか」と、驚いた。

今回の選挙に出馬せずに、引退していった議員が3名いて、彼らの持っていた支持層をそのまま受け継いだと見られる候補も、エリア的にはなんとなく見えていたが、住所を見てもピンとこない候補の場合は、地盤があるのかないのかもわからなかった。

私は、それぞれの候補者名を検索して、ホームページやフェイスブックが出てきたものは、それをブックマークして、選挙期間中の更新状況を確認していたが、新人候補に関しては、大変失礼ながら、フェイスブックを見ながら、「こんな感じの人が立候補してしまうのか」と、「立候補しよう」と決断する方々の、社会に対するレベルの低さを感じてしまい、まあ、そもそも市議会議員などは、この程度のモノなのだろう、と思わざるを得なかった。誠に失礼な言い方にはなるが。

選挙に立候補しようとする人が、個人のフェイスブックで情報を発信しているならば、今の時代、スマートフォンで様々な情報を取り入れるのが当たり前の時代に、もうちょっと使い用があると思えたが、あえて自分の印象をネガティブなものにされかねないWEBをそのままにしておくというのは、私としてはありえないことだったのだが、結果を見ると、WEBを積極的に使っていたからといって得票数が多くなるわけでもない例が複数あり、というか、得票数の多い候補に、WEB戦略が出来ていた人はいないわけで、1000票あたりが当落ラインになる市議会議員選挙の場合には、フェイスブックなどの情報には影響を受けず、「面識がある」ということが、きわめて重要な要素なのかもしれない。

「若手の新人は、必ず当選する」という法則を、この選挙は決定づけたかもしれない。

しかし、立候補する時点での自分の仕事がうまく行っている場合、よほどの決意がなければ「議員」という、報酬の割には面倒な仕事をしようとは思わないはずで、エリア的な後継者としての意味とか、もともと政治家を志しているとか、なんらかの動機がないと、「立つ」ことはできないだろう。

私は、新人候補に「40代くらいの女性」がいれば、断トツで当選するのじゃないかと思っていたのだが、市議会議員の公報なんかを見た時の「雰囲気」の中で、「場違い感」を感じてしまう人は、そもそもそんな環境の中で、あまり興味もない法案の審議なんかにつきあうのは、耐え難いことかもしれない。

私が気になった点で、もう一つ書いておきたいのは、市街地の議員の得票数が大きく減っていることである。

候補者の住所を地図に落として、「郡部優勢」という印象が実際はどうなのか、を見てみたのだが、必ずしも郡部に集中しているわけではなくて、ほどほどにまんべんなく候補者の住所は広がっていた。ただし、人口配分で言えば、市街地エリアには、あと2人ぐらい議員がいてもおかしくない感じなのだが、エリアごとに定員が振り分けられているわけでもないので、人口比率が少なくても、面積の多い郡部にはたくさんの議員がいる、という印象になる。

その上で、市街地エリアの議員の得票数が、なんともパットしない。

言い方を変えると、市街地エリアの票が、他に流れているということになる。あるいは、2期目となる選挙において、前回よりも大きく票を減らすのは、ここまでの議員活動が評価されていないことの反映でもある。

たとえば、「中心市街地の活性化」といったテーマで、市街地居住の議員が当選した場合、その後の4年間で、何が変わったのか、何が変わらなかったのかを検証すると、「頑張っていてもやっとこの程度」と感じざるを得ないし、とりわけこの2年の市街地をめぐる状況は「お先真っ暗」的な希望のない状態でもあり、そういった時代を反映した票の動きになっていると見ることもできる。

街全体が醸し出す「雰囲気」「気配」というものは、確実に存在すると、私は思っているのだが、ここでやや強引な結論を引っ張り出そうと思う。

市街地エリアの「気配」を、「なんだか暗い」感じにしているのは、2年続けての「ちょうちん祭りの中止」であると、結論付ける。他にも要因はたくさんあるが、やはり、市街地エリアの七町にとって、伝統的な祭りがあるかないかの違いは、歴史的にも大きな差異となって現れるのである。

少なくとも、これ以上の市街地エリアの衰退を避けるためにも、「新型コロナの影響で」といった理由で、今年もお祭りを中止にすることがあってはならない。

こういう課題は、市議会議員の業務範囲でもないのだろうが、もはや「クラスターが出ました」なんてことで大騒ぎする段階ではなくなった。

中止する理由を考えるのではなく、絶対開催するために、何をすべきかを考えよう。商店街の収益には直結しなくても、街の中心部の「気配」を明るくすることは、安達エリアの大型店での賑わい以上に、歴史的な意義を持つ。

と、いろいろ考えているうちに、思わぬ結論にたどり着いてしまった。このままでは、「中心部」を安達エリアに「芯から」奪われてしまう。

「見せる」ことの重要性。

ちょうちん祭りを「見せる」ことの重要性。

掴みどころもなく、そこはかとない、この街の雰囲気は、そこから広がるのである。