楽山舎通信

わたじん8の日記です

2022年10月15・16日・・150年60年40年

150年 鉄道開業から

2022年10月14日金曜日。日本の鉄道が開業して150年となる記念の日だった。鉄道に興味がないと、なかなか情報に目が止まらないかも知れないが、今月は鉄道月間と言えるほどに、様々な企画が目白押しとなっている。ラジオを聞いていると耳にするのは、鉄道関連の音楽特集。なぜか、鉄道と音楽は相性が良い。レールの継ぎ目で発生する「ガタンガタン」は、ノイズといえばノイズなのだが、この音は、正確なリズムを刻み、それが列車そのものが発するモーター音、駆動音と重なり合い、それが旅路のBGMとなるほどに、なぜか心地よいのである。

前置きを書き出すと長くなるので、鉄道にまつわる私自身のエピソードは、別稿にまとめようか。

さて私は、その翌日の10月15日土曜に、新幹線で東京に上がり、まずは開業150年の記念となる東京ステーションギャラリーの企画展を鑑賞した。ちなみに、この企画展の前は「東北へのまなざし1930ー1945」で、こちらも鑑賞した。福島の県美で一度見ながら2度目を東京で。

鉄道開業150年を記念する「美術展」。

開業150年というと、当然おめでたい話ばかりと思っていたが、意外な視点からの作品が複数あり、日本各地に鉄道網を整備し、ここまで続けるにあたっての負の側面があることに気付かされ、多様性と包摂性という、この時代ならではの問題がここにもあったことにハッとした。祝賀ムードの中に、きちんと負の側面を題材とする作品を展示する企画は、私としてはすばらしいなと感動したが。「そこか?」と言われそうだが。

鉄道の駅舎、駅というのは、街の発展にも欠かせない要素であるとともに、鉄道が交通機関の主役だった時代にあっては、まさに人が集まる拠点であり、様々な土地の様々な人々が、そこに集まり、そこから市街地を形成するまちづくりが発展してきたわけだ。

鉄道以前の都市形成が、「城」を中心とする「城下町」型の形成であったのに対して、鉄道開業後の都市形成は、「駅」を中心に発展し、日本の近代化、高度成長を支えていく「ハブ」としての役目を担っていくわけである。

まあ、このことだけを考え始めると、先に進めなくなるので、「鉄道開業は革命だった」ということですすめることにする。

この美術展を見て、駅舎の果たした役割の中で、居場所を失った人々を、なんとなく受け入れていた時代が、かなり長かったことを思い出した。そうだ、そんなことはすっかり忘れていた。

東京駅の地下道にも、今でいうホームレスの人たちがあるエリアを占有しているのが、日常的な光景だった時代があった。というか、少なくとも私の学生時代(約40年前)はそうだった。

その後いつから「浮浪者」がいなくなったかを正確に把握はしていないが、今回の作品の中に、彼ら(いわゆるホームレス)を描いた作品があり、その一人一人の背景に、思いをかけぬわけにはいかなかったのである。それは「鉄道」という交通機関の問題とは一線を画す話ではあるが、鉄道の駅舎が、ある種のあいまいな公共性の中で、様々な人々を「受け入れていた時代」があったということは、事実なのかもしれない。

ちなみに、学生時代は「ステーションビバーク」と称して、駅舎周辺でシュラフを広げてビバークしていた。というか、私は50台になっても、「ブルベ」と称する自転車旅行の一端で、駅のひさしの下にシュラフを広げて寝ている。もちろん、それができる駅とできない駅はあり、そこは選んでいるが。

60年 還暦同期

東京駅から地下鉄東西線で早稲田に移動し、次の課題は「60年」。

私にとっての60年というのは、言うまでもなく「還暦」のことである。

2022年寅年。

1962年生まれの私は、還暦なのである。大学ワンゲル同期との還暦祝いの飲み会。それが今回の上京のメインイベントである。企画はかなり前に立ち上がり、新型コロナの影響もあり「八ヶ岳山麓でキャンプ」というのが最初のプランだったが、それもいいが、私はやはり、大学時代を過ごした早稲田周辺で飲みたかった。

集合時間よりもかなり早い時間に、東西線早稲田駅を出て、事前にマークしていた漱石山房記念館草間彌生美術館を見に行く。どちらも前を見るだけで、内部見学の余裕はなかった。土曜日ということもあり、賑わっていた。早稲田は夏目漱石と縁が深い。

18歳の頃、私は上京して最初の下宿先を選ぶ時に、「喜久井町」にこだわった。新宿区喜久井町。そして「夏目坂」。夏目漱石の生誕地でもある喜久井町喜久井町は面積的にも狭くて、学生が選べる物件の数も少なかった。まあでも、私はこの地名だけは死守した。私は、地名へのこだわりの強い人間で、地名的に住みたくない場所には絶対に住みたくない。名前で人を選ぶようなものだろうか。ちょっと違うか。

喜久井町のある夏目坂は、お寺さんが多い。そして、私が初めてこの場所に行った時に、なぜか夢の中で見ていたお寺が現れてびっくりした。不思議な縁を感じたのであった。間借りすることを決めた家は、石屋さんで、その石屋さんは、今は新しい建物になって商売を続けていた。これだけお寺と墓地に囲まれた環境であれば、ずっと続いて行けそうである。

ひと通り、夏目坂方面を歩いたあとで、八幡宮に詣でる。早稲田のランドマークでもあるここは、40年ぶりで来たわけでもなく、すごく懐かしいという感じでもないが、節目として立ち寄るべき場所であるとは思った。

そこで同期の二人と合流し、大隈講堂と大学の前を通り、神田川方面へ歩く。神田川にかかる橋を渡って文京区豊島区側に入るのは、まさに学生時代以来であった。思ったよりも、昔の面影はある。私は、自分が2年生から住んでいたアパートへの道を記憶通りに間違いなく歩き、一発でそこにたどりついた。

私が住んでいた「山アパート」は、やや古びたが、昔の面影そのままに、アパートとしての役目を果たしていることに、ちょっと驚いた。築年数で言えば、50年以上、もしかすると60年になるかもしれない。いやあ、これはうれしかった。おそらく、建築条件的に、新築が難しい場所なのかもしれない。木密地域まではいかないまでも、低層の戸建てが多いエリアである。ああ、道幅が4mない。

その後、神田川沿いに豊島区側に入り、富士見坂を上って日本女子大のある目白台にあがる。目白通りは、日本女子大から和敬塾、田中邸に椿山荘に東京カテドラル。格式が違う。田中邸だったと思われる土地に、目白台公園なる新しい広大な公園ができていた。規模縮小して、田中邸の表札はあった。

目白通りを椿山荘まで行って折返し、蕉雨園と和敬塾の間にある車は通れない狭い急な坂「胸突坂」を下って右に曲がり、学生時代は一度も足を踏み入れることのなかった肥後細川庭園に入ってみる。うーん、目白台恐るべし。学生時代は公開されていなかった可能性もある。私の住んでいた目白台一丁目のお散歩エリア。

東京の山手線内エリアには、実はものすごく格式の高い緑地や庭園がある。目白台のあたりに、かなり広大で歴史的な緑地が保全されていることには、ちょっと驚いた。

次に、早稲田スポーツミュージアムに移動。なかなかに、士気を高めてくれる展示内容になっていた。奥の方で上映されていたラグビー部100周年記念ビデオに、同郷のラガーマン「ドス」こと渡辺隆さんがアップでインタビューを受けていて、言って見れば、私が早稲田に憧れた理由のひとつが、ミュージアムラグビーシーンで堂々と残されていることが、ちょっと誇らしかった。若き日の私がなんで私が早稲田にこだわったのか。それは二本松のボーイスカウト時代の影響によるのであった。

次に向かったのは、戸山公園からの箱根山。山手線内での「最高峰?」44.6m。大学時代のトレーニングの起点みたいな場所。戸山公園は、昔は子供ばかりだったが、学生集団でごった返している現在の状況に、かなり驚いた。

そろそろ時間となり、早稲田通りの焼肉店大昌苑に移動。昔話に花が咲いた。枯れてないな。まだまだこれから。

2次会は新宿駅南口に近い千草。美味しいお肉をたくさん食べてお腹いっぱいだったが、2次会もあっという間の時間でお開きとなった。人数と話題が、いい感じで締めくくられた。私は、予約していた新宿のホテルへ。長い一日が終わった。

長くなったので、タイトル中の「40年」は、続きのブログにまとめることにする。

鉄道と美術の150年

漱石山房記念館

草間彌生美術館

夏目坂案内板

肥後細川庭園

早稲田スポーツミュージアムWWV展示

箱根山