楽山舎通信

わたじん8の日記です

2022年12月21日水曜日 整さんの命日

今日は、芳賀沼整さんの命日だ。

整さんが亡くなったのは、3年前。2019年の12月21日。葬儀告別式は、12月25日だった。知らせを受けたときには、ちょっと信じられなくて、告別式で永遠の眠りについた整さんの顔を見たときに、「ああ、ほんとなんだ」と実感し、いろいろ世話になりながら、何も恩返しのようなことができていなかった自分を悔やんだ。

私は、1988年の9月に、長野県の美麻村(現大町市)から南会津郡田島町針生に引っ越した。そして、最初の仕事として整さんと重三さんに連れられて行った場所が、聖高原だった。

この「聖(ひじり)」という漢字は、「セイ」とも読むが、セイさんは、聖の漢字を使っていたこともあったと記憶しているが、「清」を「整」に変えたのは、たしかその頃の話だったと思う。「伊藤整」への憧れがあっての「整」だった、と私は記憶しているが、いろんな話をしている中で、どれが本当のことかわからないことも少なくないので、真実はもっと違うことなのかもしれない。

一つ前のブログに書いたように、長野時代の私の「師匠」と呼ぶべき人は、荒山雅行さんだったが、田島に引っ越して、ほとんど家族同然のように整さんに面倒を見てもらい、「師匠」という感じでもないが、まあ本当に、いろいろと教えてもらった。

人見知りで引っ込み思案で内気な性格の私にとって、あのぐらい豪快に動き回れると、有無を言わさず周りを変えていく軸になるんだろうなとは思ったが、それは真似してできることでもなく、3兄弟を見ていても、ある種のタレント性をもった天性と、育った環境によっての「唯一無二」な存在だったのだと、今更ながら思うわけである。

当時、金山町で椎名誠監督による「アヒルのうたが聞こえてくるよ」という映画のロケがあり、友情出演みたいな感じでカヌーイストの野田知佑が来ていて、整さんのカヌーの趣味が、野田知佑に出会う前だったか後だったか、記憶が曖昧だが、私も含めて「カヌーブーム」が来ていた。けっこう頻繁に、奥只見湖に出かけてカヌーを漕いでいた。

そこから一気に振り幅が動くのは、東京理科大の二部に入学してからのことだ。

1995年1月17日の阪神淡路大震災を契機に、私は二本松の実家に戻ることになり、針生での暮らしは1995年の12月までとなった。振り返ると、当時は「学生」として東京に通う生活を始めた整さんにとっても、大震災は契機だったのだ。まちがいなく。

東北大学の大学院に通うようになった整さんとは、ほとんど付き合いがなくなっていたが、自分の仕事が薄いときに、度々仕事をもらったりして、細い付き合いはあった。まあ、家族関係の中でも、いろんなドラマがあって、センシティブな部分は多い気はした。

「整さんを偲ぶ」という話になると、どうしても「建築家」としての成果と、そこまでの道程の話になり、大学や建築士会関係者による思い出の振り返りがもとになってくる。けれども、大学に行ってからと、いやもっと言えば、東北大震災の前後では、思考のパターンが違っている気がしないでもなく、大学以前の整さんのイメージが強い人にとっては、けっこうギャップが感じられるような気もする。

もちろん私は、理科大東北大以前のスタジオとしては初期の建築にしか関わっていないので、その素朴さが良かったと素直に思う。施主の話をとことん聞いて、そこから「手の届かないかゆいところ」を見つけ出し、設計に生かしていく、というのが、真骨頂だった気はする。まあほんとうに、「人間性を見抜く」という点においては、学んでも学びようがない「心眼」を持っていて、そこから造形していくというところが、作る側としてもけっこう面白かった。

振り返ると、やはり東北大震災とログハウス仮設住宅からここまでの歩みが、なにか大きなものに追いかけられるようなプレッシャーになってしまっていたような気もする。

人は、関係性の中で大きく育つが、その関係性の中では捨てられてしまう長所も、ある。あえて「関係性」の枠を外す時間を持つことで、自分が忘れているものに気づくこともある。