楽山舎通信

わたじん8の日記です

2022年12月24日(土) 星野道夫「悠久の時を旅する」を鑑賞

前半の記事に続けて)

恵比寿ガーデンプレイスの中にある、東京都写真美術館に向かう。案内係が何人もいて、写真展がフロアごとに3つ開催されていて、にぎやかだ。時刻はちょうど2時。予約の時間は2時から3時の間で、入り口でスマホQRコードを見せてチケットレスで入館。エレベーターで地下1階に向かう。階段でも良いのだが。

エレベーターの扉が開くと、そこには星野道夫の写真「春のアラスカ北極圏、群れにはぐれてさまようカリブー」のモノクロームな風景写真が、ド迫力で飛び込んでくる。

「私はいつからか、自分の生命と、自然とを切り離して考えることができなくなっていた。」というテキストが、「悠久の時を旅する」というタイトルと対になって、写真とともに訴えてくる。

人が多いので、一度受付でスマホQRコードを見せてから、もう一度まじまじと「さまようカリブー」の写真の前に行き、気持ちだけはアラスカの風景のなかに入れ込んでいく。

写真集やWEBで見るのと、大きく引き伸ばした写真を見るのとでは、印象が変わるし、物語を作って大きな写真を並べる写真展のインパクトは、想像以上だ。写真展なので、当然写真撮影不可。

写真展は、プロローグを含めて全6章の構成になっている。

プロローグ、第1章・生命の不思議、第2章・アラスカに生きる、第3章・季節の色、第4章・森の声を聴く、第5章・新しい旅。

それぞれの章の入り口にあるテキストにグッと来るのだが、新幹線の中で予習してきた「旅をする木」の中にあるテキストが少なくなく、星野道夫写真展で大事なのは、実は彼の残した文章なのだということを、改めて痛感した。

写真と共に、彼が残した取材ノートや書き残した原稿用紙が展示されていて、彼の「文字」を見ることで、そこに生きていた証を感じるわけだ。テキストをPCで打ち込むのが当たり前の世の中になると、万年筆の筆致で書き綴る原稿用紙というのが、新鮮に見えてくる。万年筆と原稿用紙、あるいは分厚い大学ノート。

それと同時に、星野道夫の時代の写真は、当然「銀塩フィルムカメラ」の時代であり、今のように、デジタルで一度に何百枚も大量に情報を残せる時代とは異なり、一枚一枚が「勝負」だったのだ。

一枚一枚の重みが、デジタルの時代とは、全く違う。2022年の今年が生誕70年という星野道夫は、1996年にヒグマとの事故で亡くなったので、デジタルツールが今のように豊富にある時代とは異なる時代の写真である、ということにも、大きな意味がある。

大雪原や大氷原の中で一枚の写真を撮るということは、背景に過酷な取材環境があるわけで、写真を見るということは、撮影者の過酷な体験の共有でもある。マイナス20度以下の環境の過酷さは、体験したものにしかわからないが。「そこに人がいる」ということが、驚きなのである。

しかし、現代社会にあふれる写真や映像は、無人カメラやドローン、あるいは衛星からのものも含めて、「人の体験」をイメージできないものが溢れていて、そういう意味でも、「銀塩時代」の写真が訴えかける「真実」の重みは大きい。一枚の写真のこちら側に、その撮影者が体験している壮絶な環境というものがイメージされると、一枚の写真の価値が、全然違って感じられる。

星野道夫と言えば、やはりカリブーやシロクマ、ヒグマなどの動物写真が真っ先に思い出されるし、動物写真家としての印象が強いが、この写真展で見た人物の写真が、とりわけ印象深かった。人も動物も、同じ生き物として、そこに分け隔たりがなく、とりわけ厳しい自然環境の中で、自然の生命によって自分の生命を支えていくネイティブな人たちの生き様が訴えかける力は強烈だ。「自然の生命で自分の生命を支えている」、のだ。他に選択の余地がない、「共生」。

「人新世」と言われる、圧倒的に人間の能力が強まってしまった21世紀のこの時代に、星野道夫が生きていたら、果たしてどんな言葉でこの世を語っていたのだろうかということに、興味が湧く。

何か本当に、この世のワタシたちは、大事なことを忘れてしまっている、いや、忘れるというよりは、捨て去ってしまっている。そんな気がした。忘れているんじゃなくて、捨てている、のだ。そんなものには、もう、なんの価値もない、と。「そんなもの」・・・「自然」・・・ありのままの。

星野道夫ではない私達は、「自然の生命」と「自分の生命」が、切り離されているのが当たり前、になっている。

写真展の最初に目にした言葉、

「私はいつからか、自分の生命と、自然とを切り離して考えることができなくなっていた。」

星野道夫のような、壮絶な体験がなければ、この境地に入ることはできないのだろうか。いや、そんなことはないだろう。たとえば、ちょっとした登山で、圧倒的な自然環境の中に身を置くだけでも、「ちっぽけな自分」を痛感することはできる。人工的な空間の中にいるだけでは、その境地の入り口にもたどり着けないが。

星野道夫同様に、私も北方指向であり、だからこそ若い頃から彼の作品に思い入れが深かったし、憧れでもあった。

一人で雪山の、登山道も見えない、見渡す限り真っ白な風景の中に身を置くと、なにかをちょっと間違うだけで、死ぬかもしれない、という緊張感と共に、生命の大切さを思い知る。

星野道夫の、「自然と生命」の写真の、音のない静かなる衝撃が、厳しい雪山に対する自分に、改めて勇気を注ぐ。そんな時間だった。